例えば多くの人が何気に使っている『愛』という言葉。
その言葉をその人が今に至るまでに
どのような状況で
どのような心境で
どのような事を表現しようとして
用いてきた方によってその『愛』という言葉の意味合いは異なってくる。

もちろん辞書的な意味はある。
だが辞書的な意味はある時期での使われ方を概説した程度の意味合いしか持ち得ない。
それは若者が新しい意味で『やばい』という語を用いている事からも明らかである。

つまり正しい日本語なんてものは存在しないのだ。

言葉は常に生々流転の存在なのだ。
その最たる例が『全然』であろう。
ちょっと勉強した奴がさも偉そうにこうのたまう。

『「全然」っていう言葉は否定を伴って使わなあかんから、「全然大丈夫!」なんて使い方は間違ってる!』

はたして本当に間違っているのか?
そもそも何と比較して間違っているのか?
歴史的な用法から逸脱しているという意味で間違っていると言っているのなら
それはもう無知の大罪としか言いようがない。
源氏物語や枕草子といった華やかな貴族文化が栄えた時代
否定語を伴わない「全然」という語は存在していた。
あまりにも狭い視野で物事の善悪を判断している。
自己客観視の出来ない人は時として傲慢だ。

あやふやな「言葉」を用いているのにもかかわらず
話せば何でも人に伝わると人は安易に考えすぎなのではないか?
そして
話して貰えれば全てを理解出来ると安易に考えすぎではないか?
人を理解するのはほとほと遠い道のりなのだから。

どんなに分かりやすく表現しようとも人に伝わらないときはある。
この人は何を伝えようとしているのか?
この人は何を表現しようとしているのか?
本当に相手のことを理解したいのならこの疑問は不可欠なはずである。

人の話をしっかりと聞ける人間は本当に少ないよなぁ~と思う今日この頃である。