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小学校入学前の春休みは、よく隣の曾祖母の家に上がり込んでいました。
近所の神社内にある遊具広場は、従姉妹のEちゃんと2人でなら行けたけど、小学生になるまでは1人で行ってはいけない事になっていたので………。祖母の小言やパワハラから逃げる場所に困っていた(+_+)
で、避難していたのが、親戚の人達が集まる曾祖母宅。
親戚の人達が集まってくる午後のお茶の時間と被らないように、
「こんにちは~」と、一声かけて、勝手口から入っていく。
風呂場、台所を通って居間に顔をのぞかせると、
中央の掘りゴタツの向こうに、縁側から差し込む日の光を背にした『Tおじちゃん』が座っている。
いつも、そこがTおじちゃんの定位置。
台所の板の間をどんなにソロソロ歩いても、わずかな音と空気の流れでおじちゃんは気づいて顔を上げる。
「おや、来たのかい?(^^)」
Tおじちゃんの目は、
黒目の部分が緑と白が混じった色に濁っていた。
その頃には光とわずかに人の姿形をとらえるくらいしか視力はなかったはずだった。
Tおじちゃんの目は、半年後には完全に視力を失ってしまうことがわかっていたので、
おじちゃん自身、それまでに点字の習得や鍼灸師の資格の習得など色々準備に忙しそうだった。
そんなに忙しい最中にも、わたしが来るとコタツの上のお菓子を勧めてくれたり、
新聞広告の裏紙に細かい迷路を描いてみせてくれて、たくさん問題を出して相手をしてくれた。
Tおじちゃんは、6人兄弟の末っ子で祖母とは17才くらい離れている。先天性の低身長と視力の低さで、小学校しか卒業していなかった。
それからずっと曾祖母の家で、曾祖母と次女のおばさんと生活をしている。
わたしが遊びに行ってた時は30代後半だったと思うが、見た目身長は130センチなかった。
古い日本家屋の曾祖母宅は昼間でも薄暗く、バリアフリーなんて存在すらしていなかったが、Tおじちゃんは不自由さを全く感じさせなかった。
わたしにとって、Tおじちゃんはお地蔵さまの様だった。
完全に視力を失った後も、わたしが話しかけると見えない目を見開き、顔を向けてウンウン頷きながら丁寧に耳を傾けてくれた。
濁った瞳に最初は「怖い」と口走ってしまったこともあった(/_;)。
「おじちゃん、痛くないの?」と、聞いたこともあった。
でも、責めるでもなく、ただ微笑んでくれていた。
おじちゃんの瞳は、見えなくても、『心』を見透かす目。
小学校までしか学校へ行ってなくても、新聞を読み聞かせてもらい、点字の書物を読み、哲学者のようだった。
目がもっと見えてた頃は、ボトルシップや模型をたくさん造ってたらしく、書斎に飾ってあった。
オーディオデッキを持っていて、クラシックやジャズのレコードをたくさん持っていた。
曾祖母宅の小さな世界で、Tおじちゃんは知識や感性を深めていた。
小さなわたしが話すことを、周りの大人は馬鹿にしたり、まともに受け止めてくれた事はなかったが、
Tおじちゃんは、わたしを軽んじることをせず、丁寧に耳を傾け相対してくれた。
祖母が怒りの声と共に迎えに来て、
わたしが怯えておじちゃんの背中に隠れたり掘りゴタツの中に潜ると
「あとで帰らせるから」と、よく庇ってもらった。
小学校4年生くらいまではちょくちょく顔を出していたが、やはりだんだん忙しくなりお正月やお盆くらいしか挨拶に行かなくなってしまったのは…………今でもしんみりしてしまう。
実家とは縁を切ってしまった今、Tおじちゃんがどう生活しているかはわからないままだけど、
どうか、健やかに過ごしてくださっていることを遠くから祈っていますm(_ _)m
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