文章を書くにあたって、文法の過去形が魅力的なのは私の出来事が私から引き離されてゆくからで、私は文というのはなるべくフラットで客観的なほうがいいと思っていたし、それが美徳であるような気がした。でもそもそも美徳という言葉は厭なのだ!美しいという表現は単なる記号で、的確な表現を欠いただけのように思えたし、徳という言葉には興味が沸かなかった。こういうことは現在も思っているのだから、過去形で書かなくていいのに、私は私の出来事を他人の出来事にする為に過去形を使いたがった。そもそも文章や思考の上には過去も今も未来も存在しないはずなのに、世間一般のそういう分類の仕方を、学がない癖にもどかしがった。
地方に就職しても、気持ちは東京に居たかった。近くて便利。夜も遅い。でもそれは悪しき習慣に溶かされているだけなのかも。そう考えると地方のほうが良く思えてくる。電気スタンドの位置一つで魅力は皮肉に、美麗は虚偽に。
それにしても、その地方ではおそらく2年、長くても3年が限度のような気がしている。
多数の地を転々としたい。いつかは北欧で就職もしたいし、なんとしてもネパールやチベットは訪れるべきで、休日は西欧旧市街のグランマルニエの通りを散歩する生活を手に入れたければ、東南アジアの閑散としたショッピングモールのカラフルな求人広告に元気をもらいたがった。メキシコシティの朝、リスボンの昼、モスクワの夜、ポートモレスビーの朝、ラパスの昼、ポートランドの夜、ウランバートルの朝、ナイロビの昼、ホーチミンの夜、、、、、点々、転々。
でもそうすると、私は恋人や家族をいつどのタイミングで手にするのだろう?こういう逆算はあまりしたくなかったが、一緒にいる人や家族は欲しかった。祖母に、自分のひ孫を抱いてほしいと思っていた。それを考えると、今の私の、身勝手な片恋の貧弱さには目も当てられない!
私のこういうぼやきをもっと客観的なエッセイとして(という矛盾…!)洗練させたなら、それを私は、漠然と、映画で表現するのが適していると考えていた。誰かがぼやくように文章を読み上げて、そこに、その内容とはあまり関係のない映像がつく。海の中で眠るイルカでもいいし、マーケットで野菜を吟味する客でも、熊同士の試合でもなんでもいい。演者が話す言語は鑑賞者にとっての外国語で、鑑賞者は内容を母国語の字幕で知るという形式にしたかった。声は単なる心地よい音響でしかなく、全ての情報は目の中で混ざり合う。一つの画面上に文字と光景と意味が。でもそんな映画、一体誰が見るのだろう?
ここから一昨日に書いたもの
だらだら歩くのが癖になっていた。全部がどうでもよかった。全部が私の周囲で鋭く剥かれたり、柔らかく弾けたりした。全部を目に入れているのを自覚していた。光景は、目の外側でかさついてひどくそっけない時もあれば、ゼリー状をして目の内側にちゅるんとすべりこんでくるような時もあったが、具体的に覚えていることはない。
全部がどうでもよかった。いつもそうだった。全部というのは周囲におかれた自分のことで、どうでもいいのは自分だ。
完全に、自然に無視されている状況を気に入っている。私にとって一番さいわいすることは、その時と場所の、空気となることかもしれない。私が人好きゆえに、人について行動をすることは、海や森を愛しながら、その中を泳いだり歩いたりするのと同じことだ。行動しながら受けている。フィードバック。フィードバック。だらだら歩くのが癖になっていた。全部を目に入れている自覚はあった。フィードバック。いちいち色んな感情がふりかかったが、それをなんとも感じていなかった。だらだら歩くのが癖になっていた。何か考えていたかったけど、考えることはなかった。例えばアルバイト中に、習慣化した単調な作業をしながら、毎回その作業のことだけを考えて作業している時間をあとからむなしく思ったりした。
一見不可解なのは、私が表現や発言をやめないことで、私はそれをどうでもいいと思っているのに、書いてSNSに載せるし、スルーしてほしいと思っているのに、毎回話す。例えば私が自分の文章を本にして出版したなら、それは誰かに読んでほしいからではなく、そういう状態が完全だから、そうなるのであった。全ては自然だと思う。パッシングスルーで。