こんばんわfrom長崎。
今年も原爆慰霊祭に出席するための
帰省でした。
8月9日。
私にとっては大切な日。
うちは祖父母ともに
原爆にあっていますので、
小さいころから原爆の話は
聞いています。
祖母は工場にいて手を怪我しました。
今だに薬指が僅かに曲がっています。
ガラスがささった痕は
はっきりわかります。
原爆が落ちた瞬間、
建物が揺れて、
いろんなものが振ってきて、
祖母は本棚の下敷きになりました。
その時ある男性が
覆いかぶさってくれたそうです。
その方は即死しました。
でもその方のおかげで
祖母は助かりました。
切り傷、擦り傷で医務室に行っても、
軽傷!と言って治療なんぞ
してもらえなかったそうです。
だから、刺さったガラスを
自分で抜いたそうです。
だから今でも痕が残っているのです。
一方祖父は防空壕の中にいました。
何人もの学友が亡くなりました。
やけどで皮膚がただれた人が、
川に水を求め飛び込み、
そこで死んで、
川が死体だらけになっていたそうです。
性別がわからない死体が
ゴロゴロしていたそうです。
でも、祖父は幸い無傷。
師範学校(先生になるための学校)
に通っていた祖父は、
その後学校の先生になり、
校長になり、
長崎の教育委員会の
偉い人にまでなりました。
慰霊祭はこの師範学校の方々と
共に参列しています。
もう15年程行っていますので、
皆さん私の顔も覚えています。
何せ、おじいちゃんと孫で 参列する
のはうちくらいなものですから。
「今年もおじいちゃんを
連れてきてくれてありがとう」
と
言われます。
こちらこそ。
被爆者ではないのに、
被爆者の方と同じ席に座らせて
頂きありがとうございます。
年々、参列者の方は減っています。
亡くなってしまっているのです。
戦後74年が経ち、
戦争や原爆経験者の方が
どんどん亡くなっています。
原爆の悲惨さを物語る語り部さんも
沢山亡くなり、
じゃあ誰が語り継ぐんだ?と
なったときに、
子供・孫世代が被爆者世代から
話を聞いて、
きちんと語り継がないといけないと
思っています。
それは15年間、
毎年慰霊祭に行き、
お焼香をして手を合わせている
私に託された使命だとも思っています。
2年半前、井上ひさし作
「紙屋町さくらホテル」という芝居に
出演させて頂きました。
移動演劇隊が広島原爆にあうお話です。
お話の中ですけど、
防空壕に逃げたり、
B29がブンブン空を飛んだり、
隠れて演劇の練習をしたりして、
最後は宝塚のすみれの花を歌いながら、それも笑顔で、
その最中に原爆が堕ち、
死んでいくというラストでした。
約2時間50分のお芝居で、
わかっていましたが…
辛かった。
でも、最後に見たのは、
笑顔の仲間と
一瞬見えた綺麗な空でした。
もっと生きたかっただろうな。
もっと笑ってご飯食べて歌って
したかっただろうな。
そうやって、8月6日と9日、
何万もの人が亡くなったんです。
痛みも苦しみも悲しみも。
もちろん、全部想像です。
くらべものになる経験もしてないし、
生死を彷徨う意味も今はわからない。
でも、
少しでも風化させないように。
あの日、
祖父母どちらが亡くなっていたら
今の私はいません。
助けて下さった方。
治療をして下さった方。
その御魂のためにも、
私はできることをやるけん。
きちんと伝えるけんね。
Pray for Peace..
Nagasaki
Hiroshima
゚:✩ *:゚*。⋆ฺ ꒰⁎✪້͡∀✪້͡ॢ⁎꒱byebyeeeee