「長い前置きでごめんなさいねあと少しで終わるから」
アサさんが腕を伸ばして
スタンドの明かりををつけたので
暗闇で自由に動き回っていた登場人物達は
一瞬にかき消されました
「寝そびれたわね
お酒でも飲もうか」
「そうだね
それいいね」私ものりました
アサさんはそばのタンスに手をかけて
ゆっくり立ち上がると
台所へむかいました
私はふたつのふとんを足元に折りたたんで
小ぶりなちゃぶ台をセッティングしました
お盆に氷と江戸切り子の赤いグラスをふたつ
そして紙パックの黄桜をのせてアサさんが現れました
お酒の用意が整うと
意味もなくふたりで乾杯しました
「さてと」
一口グラスにくちを浸すと
アサさんは物語の続きを語り始めました
~~~~~~~~~~~~~~
麻子と青年の結婚は
人の道を外れた恋として
しばらくは噂や中傷の的となりました
絹子の面影を護ろうとするふたりは
世間には絹子を裏切ったふたりとしか映りませんでした
ふたりにしか理解のできない事でしたから
ふたりは黙って嵐をやり過ごしました
一方
絹子の見立て通り
夫となった青年は
口下手を埋める行動力で仕事をこなし
みるみるうちに頭角をあらわし
麻子の機転や利発さにも助けられ
ふたりの人生は人並み以上に
豊かで恵まれた階段を上って行きました
息子が生まれたころ
夫は関連会社の取締役に抜擢され多忙を極めていきました
麻子はそんな夫を励ましながら一緒に暮らした母を看取り
子育てがひと段落つくと
茶道教室と
密度の濃い目まぐるしい日々を送っていきました
独立心の強い息子は仕事も結婚も自分で決めて
勤務先に近い横浜に居を構え
家を巣立ってゆき
夫婦は気づけば六十代になっていました
奇妙な縁で結ばれたふたりでしたが
夫は絹子の言った通り
沢山の美徳を持った人でした
人に対する責任感や公平さ
何事もまわりの評価より己の心に問うて決める判断力
時として弱点となる情のもろさ
そして
これも絹子の言った通り
彼の足りない穴を埋めてきたのは
麻子の内助だとひそかに自負していました
たくさんの非難を浴びたふたりでしたが
力を合わせて良い夫婦になったものだと麻子は感じていました
定年で会社を退く日の朝
ビジネススーツに身を包んだ夫は
麻子に深い感謝の言葉を述べました
麻子も今まで全速力で走り続けてきた夫に
心からの労いをしました
夫は庭の見渡せる和室に麻子を誘い座らせると
自分も向かい側に座り
居住まいを整えました
ただならぬ気配に真顔になった麻子に
夫も意を決したように
「大切な話を聞いてほしい」
と切り出しました
~~~~~~~~~~~~~~
アサさんは時折切り子のグラスを指でなぞりながら
話を続けました
「夫の話は退職を機に
私たちの結婚生活を終わりにしたいというものでした
絹子に捧げてきた自分の人生を取り戻したいのだと言うの」
「あなたも同じだろうと
お互いに残りの人生を自分の望む様に生きていかないかと」
「夫の目は秋の空の様に澄んですでに先の何かを見据えているのがわかった」
アサさんは涙声が震えないように時々ごくりと唾をのみこみました
「聞かせてちょうだいと私はお願いしたの」
「夫はどこかがひどく痛むように目を閉じて
一緒に生きていこうと思う女性がいる
その人は三十も年下で
独りで子供を育てているのだと一息に言ったの」
「まだ夫はしゃべり続けていたけれど
もう何も聞こえなかった
世界がひっくり返るってこういう事ね」
アサさんは鼻をすすりました
「ふと気付くと
夫がしゃべるのをやめて
心配そうに私を見つめていた
優しい人だから
その顔をやるせない気持ちで見ながら
こんなふうにじっとお互いをみた事なんてなかったなぁ
と思ったりしたわ
私が何をどう言おうが変わる人じゃないことはわかっていた
もう私の知らない世界に行きかけていることも
三十も歳の離れた人のところへ行こうとしている人に
取り乱した姿は決してみせるまいと思ったりもしたわ」
「こまかいやりとりは忘れてしまったけれど
最後にひとつだけ尋ねたの
その子はあなたの子供なの?って」
「夫は首を強く振って
違うよ
亡くなった前のご主人との間の子だよ
愛が足りない
寂しい目をした
女の子なんだ
と答えたの」
アサさんは静かに顔を上げ
ほんの少し私を見ました
(続く)
アサさんが腕を伸ばして
スタンドの明かりををつけたので
暗闇で自由に動き回っていた登場人物達は
一瞬にかき消されました
「寝そびれたわね
お酒でも飲もうか」
「そうだね
それいいね」私ものりました
アサさんはそばのタンスに手をかけて
ゆっくり立ち上がると
台所へむかいました
私はふたつのふとんを足元に折りたたんで
小ぶりなちゃぶ台をセッティングしました
お盆に氷と江戸切り子の赤いグラスをふたつ
そして紙パックの黄桜をのせてアサさんが現れました
お酒の用意が整うと
意味もなくふたりで乾杯しました
「さてと」
一口グラスにくちを浸すと
アサさんは物語の続きを語り始めました
~~~~~~~~~~~~~~
麻子と青年の結婚は
人の道を外れた恋として
しばらくは噂や中傷の的となりました
絹子の面影を護ろうとするふたりは
世間には絹子を裏切ったふたりとしか映りませんでした
ふたりにしか理解のできない事でしたから
ふたりは黙って嵐をやり過ごしました
一方
絹子の見立て通り
夫となった青年は
口下手を埋める行動力で仕事をこなし
みるみるうちに頭角をあらわし
麻子の機転や利発さにも助けられ
ふたりの人生は人並み以上に
豊かで恵まれた階段を上って行きました
息子が生まれたころ
夫は関連会社の取締役に抜擢され多忙を極めていきました
麻子はそんな夫を励ましながら一緒に暮らした母を看取り
子育てがひと段落つくと
茶道教室と
密度の濃い目まぐるしい日々を送っていきました
独立心の強い息子は仕事も結婚も自分で決めて
勤務先に近い横浜に居を構え
家を巣立ってゆき
夫婦は気づけば六十代になっていました
奇妙な縁で結ばれたふたりでしたが
夫は絹子の言った通り
沢山の美徳を持った人でした
人に対する責任感や公平さ
何事もまわりの評価より己の心に問うて決める判断力
時として弱点となる情のもろさ
そして
これも絹子の言った通り
彼の足りない穴を埋めてきたのは
麻子の内助だとひそかに自負していました
たくさんの非難を浴びたふたりでしたが
力を合わせて良い夫婦になったものだと麻子は感じていました
定年で会社を退く日の朝
ビジネススーツに身を包んだ夫は
麻子に深い感謝の言葉を述べました
麻子も今まで全速力で走り続けてきた夫に
心からの労いをしました
夫は庭の見渡せる和室に麻子を誘い座らせると
自分も向かい側に座り
居住まいを整えました
ただならぬ気配に真顔になった麻子に
夫も意を決したように
「大切な話を聞いてほしい」
と切り出しました
~~~~~~~~~~~~~~
アサさんは時折切り子のグラスを指でなぞりながら
話を続けました
「夫の話は退職を機に
私たちの結婚生活を終わりにしたいというものでした
絹子に捧げてきた自分の人生を取り戻したいのだと言うの」
「あなたも同じだろうと
お互いに残りの人生を自分の望む様に生きていかないかと」
「夫の目は秋の空の様に澄んですでに先の何かを見据えているのがわかった」
アサさんは涙声が震えないように時々ごくりと唾をのみこみました
「聞かせてちょうだいと私はお願いしたの」
「夫はどこかがひどく痛むように目を閉じて
一緒に生きていこうと思う女性がいる
その人は三十も年下で
独りで子供を育てているのだと一息に言ったの」
「まだ夫はしゃべり続けていたけれど
もう何も聞こえなかった
世界がひっくり返るってこういう事ね」
アサさんは鼻をすすりました
「ふと気付くと
夫がしゃべるのをやめて
心配そうに私を見つめていた
優しい人だから
その顔をやるせない気持ちで見ながら
こんなふうにじっとお互いをみた事なんてなかったなぁ
と思ったりしたわ
私が何をどう言おうが変わる人じゃないことはわかっていた
もう私の知らない世界に行きかけていることも
三十も歳の離れた人のところへ行こうとしている人に
取り乱した姿は決してみせるまいと思ったりもしたわ」
「こまかいやりとりは忘れてしまったけれど
最後にひとつだけ尋ねたの
その子はあなたの子供なの?って」
「夫は首を強く振って
違うよ
亡くなった前のご主人との間の子だよ
愛が足りない
寂しい目をした
女の子なんだ
と答えたの」
アサさんは静かに顔を上げ
ほんの少し私を見ました
(続く)