「葬儀の後
私は庭の石で珊瑚を粉々に壊し群青色の鍋につめて
桐の箱の上から釘を何本も打って封をした
身内の恥を封印したかった

そして
くぬぎ山に埋めたの
まだキャンプ場ができる前の話
一帯の林の中にぽつぽつと咲いていた百日紅の木の
ひときわ紅い一本の根元に」

「そして
絹子を私から
きっぱりと切り離したの

不思議なことに
その日から
ふと夫を感じるようになった

わかるの
とても暖かい気持ちになるから
あちらの世界では自由にやれているのかしら」

グラスの日本酒は半分も減っていないのに
アサさんはほんのりと酔いがまわった様でした

「多分
大好きだったのでしょうね
ちゃんと言った事もなかったけれど
私は夫とくらした毎日
幸せだった」

長い物語は終わりに近づいていました

「そのお鍋を掘り起こそうと
探していたのね
今になってどうして?」

アサさんはひとつ小さく欠伸をしました

「私もお迎えが近いのかしら
この何ヶ月か
父や母それに姉の夢をよく見てね
父の大切な鍋
少し後ろめたい気持ちになって
私が亡くなるときまでに群馬のお墓に戻してあげなくちゃって
そう思ったら気になって

でもくぬぎ山はあんなふうに
整備されちゃったし
自分の記憶も曖昧になっちゃって」

「違うものを発見しちゃったのね」

アサさんは目のあたりを中指で押しながらコクンと頷きました
「ご主人のお相手はどうなったの?」

アサさんはクスリと思い出し笑いをしました

「夫の葬儀で一度逢っただけ

遺族席にいる私を
冷たい目でじっと見ていた

喪服を着ていてそんなにお化粧もしていなかったけれど
それはそれは美しいひとだった
でもあれは駄目ね
一緒に暮らしてもきっとうまくはいかなかったでしょうね

私は心の中で夫に言ったの
『ばかねぇ
若さと美しさにやられちゃったの?』って

でも次の瞬間私は気づいたの
その人の影にいる女の子に

黒のワンピースを着た
十になるかならないかの子でね
お焼香の順番がくると
お行儀よく両手を合わせて
夫の遺影にむかい話しかけていた

母親の方は焼香を終えてくるりと背を向け行ってしまったのに
女の子は気づかないで
夫に話を続けていて

私はおいて行かれちゃうんじゃないかって
気が気じゃなくなっちゃって

アサさんは思い出して微笑みました

「はっと気づいたらお母さんがいないものだから
慌てて走り出して
石につまづいて見事に転んだの
私はもうみていられなくて
走り寄って抱き起こしてしまった」

「女の子は振り返って
涙のたまった目で私を見かえした
『愛が足りない
寂しい目をした女の子』

ただの推測なんだけど
夫はこの子の父親になりたかったんじゃないかしらって
私感じたの
いかにもあの人らしい

あの女性には
よくも悪くも私は無関係

でもあの女の子は
夫の為にも
幸せな未来を歩んで欲しいと
今も願っているの」


私は言葉を失っていました

私の人生の節目に
必ず手を差し伸べてくれた
足長おじさんがいた事

縁もゆかりもないと思っていたこの土地に来た理由

全ては必然だったのだと

畏れを持って知ったのです


「さあ
もうこんな時間
そろそろ寝ましょうか」

お酒のセットを片付け始めた
アサさんの後ろ姿に

私は深く頭を下げるしか
すべを知りませんでした

(続く)


夫は半開きの口から食べたものを少しもどし
背中を丸めて横向に転がっていました

麻子は反射的に
指で吐瀉物を掻きだし
背中を叩き
ワイシャツの上から
年齢よりずっと逞しい
腕や胸をさすりました

触ればさわるほど
体の堅く冷たい感触が
絶望感を与えました

それでも諦めきれず
さすり続け
呼び続け
夫が顔を上げて自分を見るのを待ちました
けれど待っても待っても
その顔は横を見たままでした

(この顔を知っている

子供の頃
飼っていた番犬が死んだ朝
この切なげな薄開きの目を見た
光のない黒い目は
生きている人には見えない
何かが見えるんだと思った朝)


テーブルに目をやると
お重の蓋が半分ずれて
和菓子がふたつほど減っているのがわかりました

(きっと酒の入った夫は
帰宅後に「あさがきぬ」を見つけ
私の答えを理解した
そして口に運び
喉に詰まらせたのだ

自分が東京タワーを見ている時に
夫はここで苦しんでいたのだ)

麻子は自分の頭をゴンゴンと
叩きました



のろのろと
119に電話をかけ
救急車を呼び

とりとめなく夫に話しかけながら
濡れタオルで夫の汚れた口や髪をきれいにしてあげました

そのうち

サイレンが徐々に高まり
家の前でぴたりと止まりました
救急隊員の姿を見て
麻子はまた
夫を蘇らせてくれるのではと儚い期待をもちましたが

隊員は
「ご主人は死後の硬直が始まっていますので
救急車で運ぶ事はできません」
と冷たく宣言しました

夫は救急車にも乗せて貰えないほど完全に死んでいる…


「私が殺してしまった
可哀想に…可哀想に…」

夫の頬を撫でながら
麻子は繰り返しました


事件性の有無を見極めるため
救急隊は警察官を呼びました

きっと自分が作った和菓子を喉に詰まらせたのだと話すと

それは検屍の結果をみてからの判断だと流されました

そのうち
横浜から息子が駆けつけてきてあとの細かいやりとりを引き受けてくれ

麻子は夫にも近づけず
息子と話もできず
時間の観念が麻痺したまま
庭の見える和室を行ったり来たりしました

頼もしく動き回る息子は
昨日の夫婦の会話を知らず

自分の父と母が別れの決断をしていたことも
全く知らないのでした

ただ退職の日に訪れた
突然の不幸だと思っているのです
今となっては
わざわざ話す意味はないと思え
麻子はひとり胸にしまっておくことにしました


しばらくして
麻子と息子は
検屍を済ませた医者に
応接間に呼ばれました

麻子と同じ歳頃の医者は
書類を見ながら
「ご主人の死に事件性はありません
事故死ですね
『誤飲により気道を塞がれた事による窒息死』
これが原因です」

(誤飲?)

「この石がすっぽりと気道に
はまっていたんです
この石わかります?」

医者は小豆大の赤色の粒の入った
透明なプラスチックケースを差し出しました

麻子は素早くそれを
医者の手から奪うと
大きな声を出しました

「わかりますとも
これは指輪についていた石です
珊瑚です」

答えながら
麻子は怒りで
つむじのあたりから血が噴き出す感覚にとらわれました

「珊瑚です!
あの指輪です!
なぜここにあるの?
なぜこんなことするの?
もうあなたには関係ないでしょ?」

ケースの小さな紅い石に怒鳴りつける麻子を見て

医者は自分の退き際と悟り
部屋を出ていきました

息子は訳は聞かず
そっと母をソファーに座らせ
落ち着くのを見届けてから
静かに部屋のドアを閉めました
麻子は指が白くなるほどの力で握りしめた
プラスチックケースの中の紅い粒をひたすら凝視し続けました
かつて
真綿の雪に儚げに染みていた
紅の記憶は消え去り

今や手の中の紅は
毒々しく煮詰まった
死者の執念の色に見えていました
(続く)
表面上はいつもの朝でした

アブラゼミが鳴き始め
ギラギラした暑さが始まる
そんな夏の朝のワンシーンでした

麻子が「お帰りは?」と尋ね

夫は「送別会があるからね
少し遅くなるよ」と答え

「行ってらっしゃい」
「行って来ます」

そして夫が玄関を後ろ手に閉めたのを見送って

麻子はしばし激しく泣きました
四十年余りの結婚生活

夫を預かりものの様に大切にしてきた事を後悔しました

何故もっと生々しく夫婦らしい諍いや
他愛のない甘えや愚痴を夫にぶつけてこなかったのかと自分を責めました

夫の弱さを恨み
何故?と問いかけ

またひとしきり泣きました

そしてぼんやりしました

やがて落ち着いて考えました

夫はよく頑張った
そして自分も

夫は絹子に捧げた人生を取り戻したいと言った
あなたもそうしろと…

そもそも私達は
絹子を挟んだ間柄だった

私との関係ではなく
一旦絹子との訣別をしよう
と言ったのではなかったのだろうか

絹子の希望通り
夫は人の上にたてる人となった
私の役目も
一区切り

夫が言うように
残る人生
自分らしく生きるのもいいかもしれない

幸い
私にはその気力が残っている

よし
そうしてみよう

気持ちが決まると

先に進みたくなりました



戸棚から父の遺品の群青色の鍋を取り出して
小豆を煮始めました

求肥を練って
小豆を包みながら
絹子に報告しました

「絹ちゃん
私達私達三人
一旦お別れしよう
次に会う時は天国でね」


出来上がった「あさがきぬ」をお重に納め
テーブルにおきました

帰って来た夫は
私の返事を受け止めてくれるだろうと思いました

さて
何をしようか

前から泊まってみたかった
東京タワーを見渡せるホテルに泊まろう

ホテルを予約して

家を出ました

自分のヒールのコツコツと
いう足音に合わせて
心の中で繰り返しました

やりたいことをやろう
自分らしく生きよう


ホテルで東京タワーを見ながらゆっくりとディナーを取りました

ゆっくりと風呂に浸かり
アガサクリスティーを読みながら眠りにつきました

翌朝は遅く目覚め
一階のレストランで
朝粥のビュッフェをとりました

おひとりさまを楽しもう
麻子は調子に乗ってきました


時間ギリギリにチェックアウトして
銀座の三越で
麻のワンピースを買いました

そして地下のワインコーナーで
軽いお別れ用に
カルフォルニア産のシャンパンと
オレンジ色のミモレットというチーズを買いました


自宅に戻ったのは
昼の二時過ぎでした


玄関の鍵が開いていて
夫の靴が帰ってきた向きのまま斜めにぬいでありました

お酒を飲んで朝方帰って
まだ寝ているかもしれない

靴を揃えなおし
静かに台所に向かいました


まず違和感をもちました

テーブル越しの床にワイシャツの背中が見えました

「あなた
どこで寝ているの」

テーブルに荷物を置き
夫の肩を揺すりました

重く堅く冷たい手応えに
夫が寝ているのではないことがわかりました

(続く)