***死者の追想***

林の中は夜の香りに満ちていました

朽ちた木の葉を踏みしめると
積もりたての雪道のように
少しだけ体が沈みました

その人に付いて
目的の場所にたどり着くまで
私は初めて恋人に会いに行くような
浮き立った高揚感に包まれていました

着いた場所は
まるで私を待っていたかのようにそこだけたいらな空間ができていました

その人はかがんで木の葉をならしました
私は目を閉じて静かにその場所に身を横たえました

「僕に命を預けられるくらいに信頼してくれる?」
私を導いた人が優しく囁きました

私は頷いて
自分の命をその人に委ねました
「目をあけてごらん
ちょうど真上に星空が見えるから」

その人は私の脚首をナイロンのロープで巻きつけながら言いました

重なり合った木の葉の屋根の透き間から
名を知らぬ星座の瞬きが見えました

「あそこからあなたの会いたい人を連れて来るからね」

その人は喋りながら私の手を胸の上で組ませ
今度は手首にロープを丁寧に巻きつけました

重なった手首の下に
心臓の規則正しい営みを感じました

家族とは疎遠で
ひとり暮らしももう10年になろうとしていました

恋愛もありましたが
男の人は結局利己的で
心を寒くするだけでした

ただひとり私を愛してくれた
優しい祖母に
その人は会わせてくれると言いました

神聖な場所に魂が降りてくると…
話したい事が沢山あって
目尻から涙の筋が流れ落ちました



気がつくとその人は
私の体を跨いで立って
私を見下ろしていました

右側の顔が林道からの灯りに照らされて
ひきつるように笑っているのがわかりました

「やっぱり良くないね
人を信じすぎるのはどうかね」
その声色は今までのその人とは明らかに違っていました

目が覚めたように恐怖が全身に広がり

私は反射的に身を起こそうと
腕と足に力を入れました

男は間髪いれずに腹の上にドスンと座ると
木の葉をワシづかみにして私の口に押し込みました

私は痛さと苦しさに咳き込みましたが
かまわずグリグリと木の葉をつめこみました

後悔!後悔!ばかだ!ばかだ!
涙と鼻水で息が詰まりました

なんとか空気を吸い込める様にと顔を横にむけましたが酸素は充分には入ってきませんでした

「そんなに会いたいなら自分で会いに行きな
どうせ探す人も悲しむ人も
いないんだろ」

多分ぐちゃぐちゃに汚れた私の顔を
その人は嗤いながらズルリと撫で回しました

「今苦しいだろ?
これからもっと苦しくなるから
状況を充分実感するために
今から3分あげるよ」

男は時計に目をやると
ビニール袋で私の顔を撫でました

声を出そうと試みましたが
犬のうなり声のような音しか出てきませんでした

これは現実じゃない!
こんな目に遭う訳ない!

逃げ場は?
通る人は?

考えろ考えろ考えろ!

その時車のヘッドライトが
林を照らしながら林道を登って来ました

助けて!!
私は足を魚の様に上下に振りましたが

車は気付かぬまま
木立の脇を通り過ぎていきました


「残念」
落ち着きはらって男が言いました

「はい時間切れ」

渾身の力を振り絞って抵抗する私の顔をぐりっと横にむけ
口から木の葉を吐かせると同時に
ぴったりしたビニール袋をぎゅうぎゅうと顔に被せられ首にガムテープをぐいぐい巻かれました

「今から一分間がご褒美の時間だよありがとう」

男はもはや獣でした

諦めた私は
せめて苦しみの先にある世界に気持ちを向けようと
星空を探しましたが
ビニールが曇って何も見えませんでした

私の耳に最期に聞こえたのは
男の吹く口笛の「A列車で行こう」でした

(続く)
アサさんは次の週の日曜日
息子さんの車に乗ってさらりと横浜に旅立ちました

車が出る時間に見送りに出た私は
アサさんの息子さんと対面しました
「輪ちゃんですね」

「はい輪子です」

私は一瞬にして少女に引き戻っていました

二十年前
「長靴下のピッピ」の本と
赤い手袋のプレゼント
中腰で私と目線を合わせ
「これからは何の心配もいらないんだよ」
と笑った幻の紳士

次の再会を待ち望んでいた私に突然もたらされた訃報

ちょうどその人が亡くなった歳まわり

人を落ち着かせる声や控え目な笑顔
少女の私が恋い焦がれたその人に
息子さんは生き写しでした

「あなたがいてくれたおかげで母はずいぶん好き勝手ができたようです
今までありがとう」

「いいえ
変わり者の私ですけれど
アサさんはそのまんまを受け入れてくださいました」

私は息子さんの後ろに重なる
大好きな人にも届くよう
精一杯の良い顔で微笑みました
そんな私の胸の内を知ってか知らずか

「あちらではフランス料理も食べられるそうなの
落ち着いたら輪ちゃん食べにいらっしゃい」
アサさんは寂しさのかけらも見せず言いました

息子さんも
「是非いらっしゃい」
と手を差し出して握手をくれました

ふたりは
その日のお天気のように爽やかに

あっという間に去って行きました

かげろうの先に車が消えるまで道路に立っていました


私は急いで家に戻り
本棚から古びた児童書を取り出しました

「長靴下のピッピ」は
動物たちと暮らすひとりぼっちの女の子
驚くほどの怪力とかばんに詰まったたっぷりの金貨で事件を解決していく…
たしかそんな話でした

私は寝室の枕の脇にそれを置き少しずつ読み返す事にしました

一方
アサさんの大発見は
すでに私たちの手を離れ
街をあげての大騒ぎになっていました

市営のキャンプ場はハイシーズンに関わらず閉鎖

そして朝のワイドショーでは
三十代の女性の連続殺人事件として連日取り上げている様でした

(続く)
夜更かしをしたわりに
翌朝はパチリと目が覚めました
腕を思い切り伸ばして
息を吸い込むと
畳のにおいと
障子から漏れる朝陽を感じました
肌触りのいいシーツの感触を素足で確かめながら
宙に浮いた私の生が
しっかりとした足場を見つけ出したような幸福に感謝しました
生まれたての私は
昨日より何倍もしぶとく強くなれる気がしていました

隣をみると布団がたたまれ
アサさんはもういませんでした
降って湧いた夏休みと
八十二歳の打ち明け話

沢山の元気を貰って
私は明日から会社に戻ろうと決めました


朝食の席でアサさんにそれを伝えると
アサさんは
「よしよし
輪ちゃんも頑張りどきだぁ」
と笑いました

それから
サラリと
「私もこれで一区切りつけて
横浜に行くわ」といいました

「息子夫婦の家の近くの
高齢者用のマンションに来ないかって言われていてね

ずっとワガママを通して
断ってきたけれど
これ以上心配はかけられないと観念したわ
ありがたく息子の気持ちに甘えても良い歳よねぇ」

私は庭に目をやりました
アサさんの気持ちのように整えられた庭
藤棚、五葉松、門の槙の木
初夏にたわわに実を付ける梅
花芽を摘んでしまったと落胆していた紫陽花
そして
今を盛りと咲いている百日紅

アサさんはこれらのものたちにもうお別れを告げているのだと感じました

庭の木々達は
逆らえない流れを知っていて
全て受け入れているように
ひっそりと
ご主人を見守っているように見えました

朝食を終えて
食器を片付けた私は
そろそろ家に帰る事にしました
アサさんはゴディバのビターチョコを紙袋に入れて
私に差し出し

「他言無用
二人だけの秘密」と目配せしました
それから
私を玄関で見送って
「道中長いから気をつけて」
といたずらっぽく笑いました

引き戸を閉める前に振り返って手をあげると
アサさんも首を傾けて
手をあげてくれました

夏はそろそろ終わろうとしていました
(続く)