最初にこの店を訪れたのは
この街に越して間もない頃でした

再開発の進む駅前から取り残された路地裏の一画に
手芸屋さん、空き地、閉まった八百屋さん、閉まったレストラン、スナックそして「かめや」がありました

午後のひだまり
立てかけたよしず
素焼きのゼラニウムの鉢植えの横で
三毛猫が気持ちよさそうに寝そべり
壁越しにジャズのベース音が
微かにもれ聞こえ

私は泣きたいような
少し眠いような
そんな気持ちに満たされて
壁の内の世界に思いを馳せました
メニューすら揚がっていなかったので
厚いドアを押すのには少し勇気が必要でしたが
好奇心がそれに勝りました

重い焦げ茶色のオーク材のドアを押して中をのぞくと

ジャズと笑い声とカップの音が混ざり合う客席はほぼ埋まり

カウンターのサイフォンごしのマスターが
「どうぞ」
と左奥の場所を指し示しました
客席をかいくぐりその席に着くまで
誰一人私を気にする人もいませんでした

「隠れ家」という言葉が頭に浮かびました

人を気にせず
それぞれがそれぞれ思うままに過ごす店


私はここが「かめや」が好きだと思いました

そしてその時座った席は
その後ずっと私の特等席になりました

笹倉さんとの一件があってから足が遠のき
およそ3カ月ぶりの訪問でした

カランコロ

ドアを押して
中をのぞくと
マスターがカウンターから顔を上げました

私を認め一瞬口元をキュッと上げ
どうぞと言う身振りでカウンターの席をさしました

いつもの私の席は
女性ふたりの先客がいました

それと
ラフな服装の五十代の男性がふたり
フォアローゼスのボトルがおかれたカウンターの左側で
ロックを傾けながら話し込んでいました

カウンターに座るのは初めてで少し困惑しました

マスターに小さく「こんばんは」と挨拶をしながら
足のながい椅子に
のそのそとのぼりました

「珍しいですね」
コースターをカードのような手さばきで私の前にセットしながらマスターが言いました

「普段とちがう日の“しめ”なんです」

「そう」
マスターは目線をあげずに
また口元だけキュッとあげて笑いました

四十代前半?
皺ひとつないギャルソンと
白シャツを身に付け
物静かさが冷ややかにも映るマスターは
自分の気配を消して
常にお客さんの会話の外側にいる人でしたから

こんな風にカウンター越しで会話してみると
なんだか少しドキドキしました

「赤ワインを」

アルコールをオーダーするのは初めてでした

「かしこまりました」

マスターはバックヤードに消え
まだ栓の抜かれていないボトルを持って戻って来ると
丁寧に拭いてから
器用な手つきでコルクを抜いて
大ぶりのグラスに三センチほど注ぎ入れました

目の前に置かれた液体は
私が家で普段飲みつけているものと違い
オレンジがかったルビーの色をしていました

そんなに沢山持ち合わせのない私は少し不安になりマスターの顔を伺いました

「ハウスワインですよ」
私の心配を感じたのか
マスターは笑いながら言いました

ホッとして
ではと

マスターに少しグラスをあげて見せてから
一口ふくみました

育ちのよさそうなそのワインは自己主張することなく
さらりと喉を通ってゆきました
私は満足して
ゆっくり飲み始めました



空間と気分とワインが混ざり合い
いつしか私はおしゃべりになっていました

今日ペチカでロールキャベツを食べた事を皮切りに

バスの運転手の外道口さんの意外な一面の事や

入澤さんの遺体をみつけた時の事

笹倉さんとの出逢いと終わり
そしてそれにまだ心の整理がつかないでいること

ストッパーが外れた様に
私の口は動き続けました

マスターが迷惑そうでもなく
気を逸らす事もなく
時折「そう」とか「それで?」とか相槌を打ってくれたので
まるで自分が話上手になったような気分でした

隣に住んでいたアサさんの話を始めたとき


左側の男性客が立ち上がり
帰り支度を始めました
「マスターチェックして」

「はい」
マスターが伝票を持ってチェックアウトに向かったので

私はそっと時計に目をやりました

11時半…
そろそろタイムアップ

でもバス停までは
小走りに行けば五分とかからないはず

まだ後ろの女性客はいるし
あと30分だけここにいよう

マスターは出口付近で立ち止まって男性客の話に相槌を打っていました

私は二杯目のワインを傾けながら
手持ち無沙汰に
カウンターの後ろの
棚のお酒に目をはしらせました

リキュールはスリム
コニャックは円錐形
ラムは平べったい
バーボンは飾り気がない
ラベルや瓶の色かたちを計算して、バランスよく並べられた瓶の下の段は
グラス達の場所

多角形にカットされたずんぐりのロックグラスの脇は
女性的なシャンパングラス
ビールジョッキにひとつ置いてワイングラス…

何かが
カーンと心に響き
もう一度見直しました

シャンパングラス
ビールジョッキに…
ビールジョッキのとなりに
群青色の小さな鍋が飾ってありました


カランコロ
ドアが閉まり
マスターが後ろ手に
ドアの鍵を閉める音がしました
(続く)
スタービルのエレベーターは
ロケットのようにあっという間に私を30階に運びました

ドアがひらくと
そこが「ペチカ」でした

どうぞと黒服の男性に促され
「ひとりです」と告げた私は
ガラスぎわの夜景の席に通されました

メニューを受け取る前に
「ロールキャベツとパン」と
注文して

あとは料理を待つ間

ずっと夜景に見とれました

きらきらと
ほんのりと
私の住む街がひかっていました
家族のあかり
恋人のあかり
ひとりのあかり

いろいろなあかりが混ざり合い夜をあたたかく照らしていました


私の家はあのあたり
入澤さんの家はあの校舎があるあたり
笹倉さんは…
なんとなくこの街の人ではない気がしていました
光をたどっているうちに料理が運ばれてきました

2500円のロールキャベツは
土鍋のような厚手のキャセロールの中でグツグツと煮立っていました

ゆるい薄茶色のソースに浸って私の拳より大きなかたまりがふたつ
ナイフを入れると
キャベツと餡が渦巻きのように巻かれていることがわかりました
熱さに舌をやかれぬように小ぶりに切ってふうふうとふいてから口に入れてみると
優しいコンソメとデミグラスのしみたキャベツは
とろけてのどを通ってゆきました
遅れてよく知っている風味が追いかけてきました
ああゴボウだ!

まずは大きさに完食できるかと不安になりましたが
意外にこの優しさなら制覇できそうでした

キノコのサラダは
秋のブーケと名付けたいような愛らしい一品で

生のマッシュルーム
ソテーされたマイタケ、しいたけ、エリンギ
笠の大きいのは扇タケでしょうか
緑に赤紫がまざったふわっとしたベビーリーフに
カリカリのベーコンがパラパラかけられ
少しニンニクのきいた和風なドレッシングで和えられていました

まるくてずっしりした全粒粉のパン

ちぎってソースにつけて食べました

空っぽのおなかが
ゆっくり
ゆっくり
温かな食事で満たされていきました

「ペチカ」のロールキャベツは勝三さんの言うとおり
特別な夜の食事にふさわしい美味しさでした

ひとりで家にこもらず
ここまで来て大正解でした


勝三さんは電話できたでしょうか…

ぶっきらぼうに
小滝刑事を呼び出す様子を想像し
勝三さんと小滝刑事のやりとりを考えると
笑いがこみ上げました

夜のバスでマイク越しに入澤さんとおしゃべりしていた勝三さん

スタービルの30階で
2500円のロールキャベツを食べる勝三さん

ヤンキーみたいな運転で
「悪いおじいさん」と呼ばれている勝三さん

奥さんはいるのかしら
子どもは?

人の奥深さは
見た目からの想像では
計り知れないと知った夜でした
他にも
この夜景の中で
私の知らない
何万通りの生き方が
今も営まれているのだと思いました

私の知らない…
ちがう
自分を知られるのがいやで
知ろうとしなかった
生き方


この30階の窓の下に広がる
夜景の街を
ピーターパンのように飛んで

まだ知らぬ誰かに
逢いにゆきたい

夢見るように思いました

この光のひとつひとつに
確実に誰かが存在していて

そのうちのひとりが
私を見つけそっと自分のスペースをつめて手招きしてくれる

漠然としたイメージが
心を温めました


日頃使いおしみをしてきた感情が
一気に溢れ出してしまった夜でした

「ペチカ」で支払いを済ませ
スタービルをあとにして
ひんやりした外気にあたっても
まだ家には帰りたくありませんでした


時計はもう少しで9時になるところ

最終のバスまでまだ時間は残っていました

どうするか決める前に
私の足は歩きなれた順路をたどっていました

角の路地に入ったとたん
駅前の喧騒がふっとトーンダウンしました

初めて訪れる夜の「かめや」は
遠慮がちな看板燈をともし
ひっそりと営業していました

(続く)
下道口勝三さんの運転するバスは
前後に車体を揺らして夜の一本道を進んでゆきました

日曜日のこの時間に繁華街に向かう人はいないようで

乗客は私以外いませんでした

中ほどのシートに腰をおろした私は、一旦本を開きましたが
すぐにあきらめ夜の車窓に目を移しました
この揺れの中読書をするとどうなるか
過去の経験から学んでいました

「こんな時間にめずらしいねぇ」

突然車内スピーカーから下道口さんが話しかけてきました

軽く笑ってバックミラーに頷きました

「駅に行くんかい?」

下道口さんは話したいんだと感じて

ポールにつかまりながら前に移動しました

「ご飯を食べに行くの」

答えてから
話したかったのは私の方だと気がつきました

「そうかい!」

勝三さんは
形相を崩して笑いました


「なに食べる?」

「んーまだわからない
あったかくて普段は食べない美味しいもの」


「お嬢さん
ロールキャベツは好きかい?」

「ロールキャベツか…
良いような気がしました


「下道口さん美味しいとこ知ってるの?」


勝三さんは
ちょっと待ってと言うように

信号が赤になるのを確かめて

白い手袋の手で
脇のバックをゴソゴソさぐり
名刺大の紙を差し出しました

腰を浮かせて紙を受け取ると

赤青二色刷りのカードには

******ペチカ**ロールキャベツの店*******

スタービル30階

と書かれていました


「スタービルの30階?
高そうな店ですね」


勝三さんは手袋の左手を振って
「2500円
ライスかパンとキノコのサラダ付きだよ」

「お嬢さん
帰りは面倒くさいからタクシーでと思ってるだろ?
千円のご飯食べて
タクシー2400円と
2500円食べて面倒くさがらずに12時10分最終のバスに間に合うように帰るのと
どっちが特別な日になるか!」

説得力ありました

「バス」
私が答えると

満足そうに
「いい店だよ
ゆっくり景色みながらさ…」
勝三さんは笑いました


打ち解けた空気が心地よく車内を包んでいました


私は勇気を持って
普段なら言えない事を切り出しました


「勝三さん
運転上手ですよね
でもね、発進の時と止まる時
もう少しだけゆっくりやってくれないかなぁ
席に座るまでもう少しだけ…」
「…」
黙り込んでしまった下道口さんに
失敗かな
気分を損ねてしまったかな
と思い始めたとき

彼は驚きの発言をしました

「あのお嬢さんにも言われてたんだよ
気をつけてるつもりなんだけど
バス運転すると楽しくってさ

ほら
くぬぎ山で
埋められちゃったろ
あのお嬢さんだよ」


「さつきさん?
入澤さつきさんなの?
だってあの人の家は隣駅じゃない?」


「うん
なんでも占いの先生かなんかが聖学館のバス停から祖路橋で降りて歩いて貝塚のバス停から本幡ヶ谷の駅に来ると方角が言いって言ったから
そうしてるって言ってたよ

いつも日曜日の10時27分で駅に向かって11時48分か12時10分の最終で貝塚から降りてった」


「勝三さん…
さつきさん何しに行くか話してた?」

下道口さんは首を振りました

「7月7日だよ
駅で降りてさ
俺の11時48分には乗らなかったんだよ
それきりになっちゃったんだよ」

また
繋がった
と思いました

「勝三さん
警察には話した?」


「話してない
サツは嫌いだし、俺の路線には聞きに来なかったから…」


「あのね
多分勝三さんの知ってる事は
さつきさんを殺した人を見つけるのに
すごく役に立つ大切な情報だと思うよ
犯人憎らしいでしょ?
捕まえたいでしょ?
お願い
すぐに警察に伝えて!」

私は財布に挟んだ小滝刑事の名刺を
下道口さんに渡しました

下道口さんは
多分背中を押されてホッとしたのでしょう
何度時も頷いて

「この人に電話すればいいね
わかった、すぐ話すよ」
と言ってくれました

そうこうしているうちに駅のロータリーにつきました

「一緒にいようか?」
と聞いた私に

勝三さんは首を振り

「お嬢さんはロールキャベツ
俺はサツ」
と指を丸めてOKマークを作って見せました

「頑張って!」
私は拳を握って頑張りポーズをやってみせました

バスを降りた私の背中に
マイクの声が響きました
「お嬢さん
最終12時10分には戻るんだよ!」


私はシンデレラ
勝三さんはカボチャの馬車の御者…

京成バスにはファンタジーが
あるのです
(続く)