バックに流れるデュークエリントンが
急にボリュームをあげたように感じました
マスターはドアに背をつける形で三メートルの距離
私たちはしばらく無言で見つめ合いました
薄暗い店内に
整った色白の輪郭が
ぼぅっと浮き上がって
暗い瞳が照明の反射で
きらきらと光って見えました
その顔から感情を読み取る事はできませんでしたが
胸が呼吸に合わせ
大きくゆっくり上下しているのが
白いシャツ越しにもわかりました
一瞬にして
酔いも
浮かれた気持ちもふきとんで
私の思考は冴えわたりました
あの群青色の鍋が
私に伝える真実は
読み違える事が難しいほど
明らかに思えました
自分の記憶をたよりに
百日紅の下
あの鍋を探していたアサさんは間違ってはいなかったのです
客足の減る日曜日の夜
かめやは平日より早く店じまいするでしょう
入澤さんは閉店までここで過ごすのを習慣にしていたのでは?
今夜の私のように
ふだん誰にも話さない事を
マスターには話していたのかもしれない
様々な人が私に渡していったカードが
今私の前でひとつの絵になろうとしていました
さあ
どうする?
マスターは私とこの鍋が
繋がっている事を知らない
あと30分のうちに
うまくこの店を出られさえしたら
勝三さんの待つ
最終バスに滑り込める
後ろの女性客に紛れて
酔って浮かれた振りをして
何食わぬ顔でここから抜け出せば…
それからの事は後で考えればいい
そうしよう!
マスターはドアから離れると
カウンターの外側
椅子の背を左手で数えるようなしぐさでこちらに近づいてくると
椅子ひとつはさんだ私の左横にするりと座りました
私の左半身は電気が流れたように硬直しました
「少し
こうして話してもいいですか」「ええもちろん」
私の声がマスターの声にかぶるように即答しました
(ダメダメもっと自然に…)
「今夜あなたがここに来てくれて…」
私達の緊迫した空気をよそに
後ろの席の女性客の談笑がどっと聞こえてきました
そちらへちらりと目を走らせてから
マスターがまた口を開きました
「今夜で
この店は閉店するんです
この一角も
みんな取り壊して
新しいビルになるんですよ」
意外にも
声のトーンがいつもより柔らかいように思えました
「この店以外はもうみんな
立ち退いて閉店していてね」
長い指がピアノを弾くように
カウンターのテーブルを
タンタタンと鳴らしました
「今夜あなたが行ったペチカもね
長いこと向かいの空き地
あそこにあった店だったんですよ
オーナーの決断は良い方に転んだようだね」
「へぇそうだったんですかぁ
じゃあ
かめやも新しいビルに?」
ありえない…
わかっていながら
素っ頓狂な軽々しい言葉が自分の喉から出ました
マスターは薄く微笑み
それから下をむいてかぶりを振りました
「かめやはかめや
他に移ることはできないよ
だから…」
私の隣の椅子の背を
中指で撫でながら
「あなたが
かめやの最期のお客様って訳です」
突然
この店での思い出が
壺をひっくりかえしたように
溢れ出しました
かめやが…
私の拠り所が
この世から消滅する
その喪失感は
私を打ちのめしました
自分ではどうしようもない涙が溢れ出そうになるのを
必死でせき止めました
さっき湧き起こった警戒心と
長い間寄せてきた愛着
ふたつの狭間で
私の心はぐちゃぐちゃでした
サラボーンの
「マイフェバリットシングス」が
トンネルの中のささやき声のように
~それが私のすきなもの~
と歌っていました
カウンターに両肘をのせ
マスターはただ静かに
最期の時を味わっているように見えました
しばらく
二人してサラの歌声に耳を傾けました
曲が終り
マスターは私をちらりと見ると
「もう帰りなさい
気をつけて…」
といつもの控え目な声で言いました
(そうそう
このまま店を出ていけばいい)一旦
コートとバックに手を伸ばし
また置きました
くるりと椅子を回して
マスターの方を向き
ゆっくりとはっきりと言いました
「おなべ、サルスベリ?」
マスターは言葉の意味を探すように
目を泳がせて
「オナベサルスベリ
オナベサルスベリ」と
二度呟きました
次の瞬間
急に
ククっと首をまわすと
見たことのない表情を私に向けました
笑うというより
引きつったように方頬が上がり目には意地悪で冷ややかな光を宿し…
一瞬の変化に
私は背骨まで凍る恐怖を感じました
マスターは
私の全身にゆっくりと視線を這わせると
カウンターの奥の棚に目を移し独り言のように呟きました
「あのブルーの鍋を見つけた時は
嬉しかったなぁ」
「あのこの魂を手に入れた喜びだった…」
『ビンゴ!』
反射的に
カウンターにつかまり
立ち上がろうとした私より
背後にまわるマスターが一瞬早く
私は椅子ごと後ろ向きに投げ倒されました
ガラガラン
ものすごい音が響き
木片が飛び散りました
私はしたたか頭と右半身を打ち息が詰まり動けなくなりました
マスターの黒い靴が顔のすぐ左脇に見え
私は蹴られないように頭を縮め
痛くない左側の手足で這うように
奥の女性客目指して逃げました
二人が座る足元で
精一杯顔をあげてかすれた声で
「助けて!助けてください!」
と呼びかけました
ふたりは聞こえないように楽しげな会話を続けているので
やむを得ず私は手前の短髪の女性の脚にすがりつきました
確かに
すがり
ついたはず…
の私の腕は細い椅子の脚にくるりと巻きついてとまりました
驚愕したまま
わたしは足首を掴まれずるずるとひきずり戻されました
(続く)