駅の南口に抜けるガードの歩道で
酔いつぶれた女がしゃがみこんで
連れの男に背中をさすられていました

「チッ」
聞こえるように舌打ちして

汚いものをよけるように
車道側を通りぬけました

店を締めた後

徒歩で一時間ほどかけて帰宅するのが日課でした

それは
店の営業中
自分に課した禁止事項

(舌打ち
高笑い
口笛
あからさまに人を見る事
自分を語る事
飲食etc.)


ひとつひとつ破り
店の呪縛から解き放たれた事を実感するための
絶対不可欠な一時間でした


店をまかされて
15年余り

店に集うものたちのための15年
聖職者のように
ストイックに暮らし
友人も恋人も作らなかった

そして

今日
それが終わった


明日は一日中怠惰に過ごそう


もう
朝の仕込みに早起きする必要もなく
店の処分のための掃除も
急ぐことはない


これだけ
人様の憩いのために
献身してきたんだ

しばらく
自分が憩っても
文句が言える奴などいない


雪景色でも見に行こうか…

男は
真っ白な世界で
体の芯が凍りつく寸前まで
じっと佇む自分を想像しました

悪くない…


それから
今夜の出来事に思いを馳せました


あのこの事は
少し気の毒だった

でも
ああいう間が悪いやつは
どこにでもひとりくらいいるもんだ
仕方ない

だいたい
自分が何であんな目にあったかすらわからず

連れの男が何者かも知らない

オメデタイ奴…

男は
口元だけで笑いました


排水口のハエだ

自分はシッカリ立ってるつもりでも

立ってる場所が見えてないんだから
救いようがない…



日中は渋滞が常の南口の大通りも

この時間は車さえほとんど通りませんでした

そんな広場の様になった
二車線道路の真ん中に

ボロ毛布の様なものが置かれていました

その毛布の汚れきった薔薇の模様に
見覚えがありました

いや
はっきりと記憶に残っていました


七夕の夜
くぬぎ山キャンプ場に入る
立て看板の下にいたホームレス
全てが汚れた薄黒い姿の中で

白目だけが異様に光って見えた老人…


此処まで遠征してきたか?

好奇心にかられ
声をかけました

「おい!」

毛布はぴくりとも動きません

「おい
轢かれるぞ」

放射冷却のせいで
いつもに増して冷たい夜でした
凍死したかな?

車道におりて
毛布のそばに近づきました

「おい」
足で押し倒してみました

老人はバタンと横倒しになり

『ガランガラン』

金属音とともに転がっていきました

えっ!?

着地するはずの足が奈落の穴に吸い込まれ

5メートルほど下に落下しました

グシャっとどこかが潰れる音を聞き

総毛立つ冷たさと
汚水の臭いを感じました

「キャー!」
女性の声が
穴から覗き込むように反響して聞こえました


「大丈夫ですか~?」

うつ伏せのまま
かろうじて右手を降ってみせました

「良かったわ
でも…」


「せめて…」



「星空が見えたら良かったんだけど…」

さみし気なつぶやきの後

『ガランガラン』

マンホールの蓋が
びったりと閉じられました

(続く)
しんとした店内で

丸太の様に転がっていました

腕の付け根の筋肉が
引きちぎられる様に痛みだしたので

縛られた
左手首で
折れた右手を
少しずつ少しずつ
引き上げるようにしながら
苦労して胸の上に腕をのせました

それだけで体力のゲージが
ぐっと減って
「はあはあ」と息をきらしました


頭の出血が多いせいか
視界は白い砂嵐が舞っていて

足は
力をこめても膝が曲がらず
足首から下は血が止まり
ズキズキと痛みました

容赦ない寒さに
朝までは
もたないだろうと
簡単に予想できました


何日か経って
マスターが鍵を開け

壊れた椅子と同じ様に

固くなった私を処分するシーンを思い浮かべ
理不尽さに胸が苦しくなりました


そもそも
人に暴力をふるわれた経験がない私でした

静かな雪山で
突然雪崩にあった気分で

呆然と
ただ受け身でいた自分が
愚かしく

今になって
猛烈に腹がたってきました


あの人の…

マスターの

あの怒りと狂気は

結局
どんな理由を並べても

あの人自身の問題なんだと思いました

自分も人も愛せずに

不完全な人間関係しか築けず

自分が図った距離よりも
内側に人が入ってくると
バランスを崩し
平常心が保てなくなる

最後には

異物として消去せずにはいられない


彼は
この店から
出られない分
悪かった


あの完璧な仕事ぶりや
几帳面さで

日々
溜めにためてきたストレスが

ドロリと煮詰まった憎しみとなって

たまたま一番近い位置にいた弱者に向けられた…

それだけの事なのだと…



部屋の気温はぐんぐんと下がり
息がもれるたびに
白い濃いもやができました

小刻みな震えと重い痛みに向き合いながら


結局
私のたどった道のりは
ずぅっとひとりだったな…
と思いました


ああ
そうだ…

この店のあの奥の席で

一年半
恋に落ちていた事もあった


カランコロ

厚いドアを押すたびに
心を躍らせて


この店の煙草とウィスキーと
コーヒー豆の茶色い匂い

ひといきれ

それぞれの会話

笑い声

カランコロ


私を見つけて手をあげる人

遠慮がちな笑顔


でも
去って行った…


いいえ違う
そうじゃない

私が終わりにしようと言ったんだ

そして
彼は
背中を押されてすんなりと
私の前から消え

私は
前より深い孤独の穴に落ちた


なぜ
普通に
「あなたが好きだから
ちゃんとつき合いたい」と
言えなかったんだろう

なぜ
去ってゆくあの人に
きちんと理由を聞けなかったんだろう


一歩離れて見てみれば
私のこだわりの小ささは
そのまま
私の生きてきた世界の小ささでした


そして
アサさんの事

横浜に移る事を私に告げた時

もし私が引き止めていたならば
アサさんはここに留まっていたのではなかったか?

それが無理でも

横浜を訪ねる事くらいはできたはず

抱えきれない恩を受けておきながら

アサさんからすっと目をそらし
大して情熱もない仕事に没頭して
それすらしなかった…

「冷たいもんですね」

いつだかに
自分が言ったセリフが

自分自身に反響しました


アサさんがあんなに一生懸命
探していたお鍋が


此処からじいっと
薄い私を見ていたのです



カランコロ



ドアのベルが
鳴っていました

さっきから
何度もあの音を聴いていたような‥


かすかなジャズのベース

意味の聞き取れない人の声

煙草の香り

笑い声

目を凝らすと

かめやは
夕暮れのような
暖かなセピアに輝きはじめ

店内は満席になっていました

そして

寒さも
痛みも

私からすぅっと
離れていきました

(続く)
少し

眠ったかもしれません


それとも

たいして時間は過ぎていないのか?

現実とうつつに境がなくなり

まぶたをあけても閉じても

眩しい光の渦が

くるくると回っていました

さっきまで私を苛んでいた悪寒は
もう感じませんでした


マスターは
つま先で私を2、3回蹴ると

反応の鈍い玩具に興味を失ったのか

その場を離れ

何もなかった様に
グラスを洗い始めました

時折
ジャズに合わせ

機嫌の良い
口笛が聞こえてきました



このまま
深く
眠りに落ちてゆければ

もうそれでいい

そんな
なげやりな気持ちになっていました



『ねぇ』

『ねぇ』

安らぎの寸前で

誰かの声に引き戻され

私は苛立ちました

『ねぇ』

『ねぇ』

怒りがふきこぼれる寸前で

ひょいっとひいては

またちょっかいを出してきます
『ねぇ』

『ねぇ』

うんざりして問いかけました

「何なの!?」


突然ストンと意識が落ち


暗闇の中に自分の骸を見つけました

そこは

コーヒー色の土の奥深く

光も音もない世界

ゆっくりと
ゆっくりと

朽ちて
崩れ
溶け出し
土に滲み…

小さかった苗は

養分のありかを探り出し

根をのばし
私を吸い取り

ぐんぐんと育ってゆく

飽くことなく
無心に…


また
光の渦

空気

「なーんだ
私の記憶じゃないや」

うふふ
と笑ってから

はっと正気に戻りました


マスターはすでにギャルソンをはずし

ダウンジャケットを羽織っていました

「2、3日
ここに転がっててよ
どっちみち店の片付けに来なきゃいけないから」

軽快な調子で言いましたが

几帳面な殺人犯は
血で汚れた床が気になっている様でした

それから

カウンターの脇のボードを開け
暖房を切り

パチパチパチとライトのスイッチを切っていきました

すべての灯りが消え
音楽が消え
空気の流れも止まりました

鍵の音をジャラジャラたてて
一旦
ドアまで向かいましたが

立ち止まり
考え直して戻ってくると

グラスボードのアップライトをもう一度つけ

満足したように
店内を見回しました

しばらく

カウンターに肘をのせ
グラスを見ていましたが
ひょいと振り向いて
死にかけた私に話しかけました

「ねぇ
あなたに極秘情報をあげるよ

『かめや』はね
come hereの隠語

昔々
祖国を懐かしむ人達の
密かな憩いの場所だったんだよ
戦後
俺の親父がオーナーから
安く手に入れて

一時はかなり賑わった事もあった

結局
ダメな息子が潰した訳だけど…」


ファーと
私の口から欠伸が出ました

「もう
どうでもいいんだよ

お前とは話したくない

早く出ていけ!」

自分の声を
不思議な気持ちで聞きました


マスターは
少し困ったような表情を作り

鍵とバックをつかみとると
ふんぎりをつけたように
ドアにむかいました

同時に
カウンターの椅子からすっと影が立ち上がり
マスターに寄り添いました

その影をまとった事に
気づかぬ様子で出て行ったマスターの肩越しに
うっとりと微笑む灰色の女性が垣間見えました


そのまま

厚いドアが閉まり
かちゃりと鍵がかけられました

店内はすぐに冷え始め

かめやと私の

終わりへの

カウントダウンが始まりました
(続く)