『独白』~笹倉~

東京での朝の会議を終えると
その日の午後はフリーでした

私は会社を出ると
その足で下りの総武線に飛び乗り
郊外のSの店にむかいました

列車は乗客もまばらで
所々シートは空いていましたが
私はそこから視界を遮断するように
奥のドアの三角形の隙間に立ち街の風景を眺めながら過ごしました


Sから逃げるように
店から足を遠ざけてからもう半年

一日たりとも心安らぐ事ない
悶々とした日々に
今日こそは決着をつけねばならないと思っていました

私の人生そのものに
消えない汚いシミを残した
Sとの出来事
そして
その延長上にある
Sの店での時間

未解決の殺人事件

それら全てが
一点でつながっていることを
私だけが知っていました

そして
Sと決着すると言うことは
それを公にすると言うことは
今の私の表向きの生活をも
清算すると言うことを意味していました


車窓の景色は
ビルやマンションがいつしか減り
アパートや民家の屋根が連なる住宅街が多くなり
やがてそこに雑木林や畑などが混じりはじめました

冬枯れた雑木林
傷みかけた住宅
寒々しい景色を視界に流しながら

私はまた
輪子の事を考えました


あの7月の昼下がり

絞り出すように別れを切り出した彼女を

私は

店から逃れたい一心で

あっさりと見捨てたのでした

置き去りにされる輪子が見せた
もの問いたげな表情に何一つ答えることなく
私は振り返らず店を後にしました


輪子は知っていたでしょう
私が臆病な小心ものであることを

けれど
その奥の奥に
更に救いようのない一面を隠し生きてきた事を
私は結局彼女に明かせずに
逃げる道を選んだのです

あのあと彼女が自分の気持ちにどう決着をつけたのか
今となっては知りようもありませんが

せめてSの店からは足を遠ざけて過ごしていて欲しい
と願わずにはいられませんでした

けれど
私は覚えています

店を去る最期の時に
私は彼女に「今までどおりこの店に通えばいい」と告げたのです
半ば意識的に…


彼女と過ごした一年半の間に
何度も
私の全てをぶちまけたい衝動に駆られました

輪子が
静かにそれを受け止めてくれるのではないかと
甘い妄想に誘惑されましたが

さすがにそれを彼女に背負わせるほどの悪党にはなれませんでした

いや
そうじゃない

自分が装ってきた普通の人の仮面を外す勇気がなかった…
それが正しい…

私は今思います
彼女に何も教えずに
生け贄のように店に残し
ひとり逃げ出した私は

やはり
救いようのない卑怯者だったと…


事の始まりは二十年以上前に
遡ります

Sと私はあの町の同じ進学塾に通う高校生でした

(続く)
私は床の上から
ゆっくりと起き上がりました

それから
カウンターの中に回って
初めて間近で鍋を見ました

それは
粗い鉄のようでもあり
あたたかな焼き物のようでもありながら

その質感とは異なった
鮮やかな群青が
見るものを混乱させ
惑わせる不思議な鍋でした

手を伸ばし
グラスにあたらぬように
そっと取り出しました

手のひらにずっしりとした重みを感じました

長いあいだ土の中にいた事で
かえって熟成されたように

アサさんのお鍋は
妖艶な気配を放っていました


「終のすみかなのですよ
ここが…
だから見終わったら
もとに置いて行きなさい」

見入る私に
声が聞こえました

「これは永い旅をして
とうとうここに行き着いたのですよ」

その声に
背く気持ちはおきませんでした
私は頷いて
慎重にお鍋を棚に戻しました


それから
会釈をすると

静かに静かに後ずさり

オーク材のドアをひき開けました

カランコロ

いつものようにベルが鳴り

私は体を
そっとドアの隙間の暗闇に滑りこませました

ドア越しにそっと見ると

客席のみんながこちらを
見つめていました

ぎょっとして
ためらいながら
小さく右手をあげると

店内の手が一斉に上がり
パッと笑顔がひらきました

嬉しくて私も笑顔を返して
静かにドアを閉めました


「さようなら かめや…」


そして

ひとり暗い道を歩き始めました

歩道の縁石をバランスをとりながらつたい

横断歩道は白い線の上だけ…

小学校でよくやった「水域ごっこ」をしながら歩きました

高いところと線の上以外は
世界は水に浸かっているのです
かめやで最期に聴いた
ビル. エヴァンスのピアノををハミングしながら

私は水の下に落ちないように気をつけながら進んで行きました

じきに
住宅街の入り口に着いたので

私は「水域ごっこ」をやめて

立ち止まり空を仰ぎました

ピーンと冷たく澄んだ夜空は
星たちの時間でした

「しんらばんしょう うちゅうのおきて…」

指切りするときの決まり言葉が口をついて出ました

星たちは零れ落ちそうに瞬いていました


森羅万象宇宙の掟…


神様

ありがとうございました




自宅の門を開けると


ウッドデッキに腰をかけ

着物姿の母が待っていました

「あらっ」
腰を上げて私を見

「スイカの浴衣で行くの?」
可笑しそうに笑いました

それから
私に白い手を差し出しました

私はその手をエイっと押し返して

「お母さんのツンツンしたところがだいっきらい」
と地団駄してみせました

母は
私の両頬をビーっとひっぱり

「輪子のぼんやりして
グズなところがだいっきらい」
と私のおでこに自分のおでこをつけました



遠くから新聞配達のバイクの音が聞こえてきました

私の庭にもうっすらと
夜明けが近づいていました


「さあ
そろそろ行きましょうか?」

母がもう一度
私に手を差し出しました


10歳の私は

その手を

両手で

しっかりと掴みました

(続く)
勝三は冷気でちぎれそうな
耳の痛みをこらえながら
自転車をこいでいました

駅まで四キロほどの大通りは
いやらしいだらだらの上り坂で
勝三は時折
「は~」とか「ふぅ」とか
声をもらしながら
たちこぎで走りました

約束した訳でもなければ
頼まれた訳でもなく

こんな真夜中に
見当もなく自転車を走らせても
何が得られる訳でもない事はわかっていました


それでも

こんな胸騒ぎを抱えたまま
ひとりの家に帰るよりは
ずっとましでした


ペチカに行ったあの娘が
最終バスに乗らなかった事

それは

勝三の中で
まっすぐ七夕の夜に繋がっていました


もちろん冷静な判断では

バスの車内で少し話しただけの自分が
いい大人の帰宅を心配する事が迷惑なことや

ただ単に
最終より早いバスで帰宅して
今頃は眠りについている可能性のほうが高い事は
充分わかっていました


充分
充分わかっていました


でも
あんな風に言葉をかわし
小滝刑事との連絡を取り持ったあの娘が

そのまま自分に顔を見せずに帰ったとは
どうも考えられませんでした


勝三だけが感じている
そのちいさな違和感

それを見過ごして何が起こったかを
勝三は七夕の夜から学んでいました

業務を終えた勝三が
家とは逆に自転車を走らせたのはそのためでした

バスを降りる時
あの娘の名前も携帯の番号も聞かなかった事が悔やまれました
聞く事が頭に浮かばなかったわけではなく
自分から若い女性にそれを聞く事にためらいがあったのでした

勝三は嫌でした

もう絶対に嫌でした

華やかさはなくとも
その手に収まる幸せを感じ
世の中のきまりを守って生きている
遠慮がちな命が

恐怖と惨めさを感じながら
容易く殺されていくのを見るのは

もう絶対に…


悪夢のように進まない自転車と格闘すること数十分

スタービルの下に着いた勝三は
自転車から降りて
しばし乱れた呼吸を整えました

案の定
入り口に設置された
飲食店の総合看板から
ペチカの灯りは消えていました
日曜日の夜
しかも一時を回っている時間です
ペチカ以外も
ほとんどの店が終わっていました

わかってはいましたが
とたんに
ぷっつりと手掛かりはなくなりました


勝三は壁際に沿わせるように自転車を止めて
小銭入れをポケットから出すと
脇にある販売機で暖かいミルクティーを買いました

「よっとこら」
縁石に腰掛けて
ミルクティーを飲みながら考えました

探すのは
七夕のあの娘が通ってた場所だ
何かが起こったなら
そこが鍵になっているはずなんだ


一時を回ってまだ営業しているのは居酒屋やクラブが数件

ひとりで入るには相応しくない

牛丼屋やコンビニ

そんなに時間はつぶせない


カラオケ、マンガ喫茶、ネットカフェ…

理屈ではなく
あの娘らにはピンと来ない気がしました


バスであの娘が何かの本を読んでいた姿が
ぼんやりと浮かび上がりました
本を読みながら時間が潰せる場所?

喫茶店?


駅前のドトールは真っ暗

あとは
蛍光舎

カフェラミル

あそこは11時には閉まる
それにバス停には少し遠い

あとは
旧ペチカの向かい
ジャズの…
かめやか

でも
あの一角はみんな立ち退きだ…


勝三は立ち上がってズボンをはたきました


先の行動が決まらないまま
自転車のストッパーをつま先で上げて
今来た道をトボトボと引き返しました

冷気が空虚な気持ちに追い討ちをかけ
鼻の奥がつんと痛みました


バス停の前のファミリーマートがやけに明るく
勝三を誘いました

空腹感が悲しい気持ちと直結している勝三は
温かいおでんを思い浮かべました

「帰ろう…」

おでんを買っても
家につくまでには冷たくなってしまいそうでした

熱燗でもひっかけて
布団に入ろう

明日にはあの娘も元気な顔を見せるさ
ロールキャベツにゴボウが入ってた事に気付いたろうか…


朝の十時には事務所に小滝刑事が来ることになっていました

帰りは下り坂

ジャンバーの襟元に顎まで入れて
勝三は自転車にまたがりました
(続く)