駅でバスを降りて
今来た方向に少し戻ります
ビルの影の細い路地を左折した所に「コーヒーショップかめや」はありました

南部鉄の風鈴
立てかけたよしずの脇に
ゼラニウムの鉢植え

このお店のたたずまいは
四季を通じて
すっきりと素朴で
子供の頃一度だけ連れて行って貰った
「浅草」を思い起こさせました
まだこの街に越して間もない頃
初めてこの店に足を踏み入れ
口にしたロイヤルミルクティーと木イチゴのタルトの衝撃は心に強く刻まれました

茶葉は「ウバ」
牛乳が違うのでしょうか
口に含んだだけでわかる濃厚なコク

そして、上質なバターのタルトに
黄身の強いカスタード
ほとんど砂糖を加えずに仕上げた木イチゴと
アクセントのキャラメリゼ

日持ちのしない食材で
こんなに美味しい状態で
お客さんに提供するのには
どれくらいの努力がいるかしらと
私は心を震わせ考えたものです

足しげく通っても決して馴れ馴れしく私の領域に入ってこない御店主の距離感

でも常連さんを決してがっかりさせない気遣い

全てが
理屈じゃない
私の生まれもっての好みにそぐっていて
心地よいのでした

でもそれも
今日を区切りに
私はこの店から足を遠ざけるつもりでした

古いオーク材のドアを押したら
私の顔を見つけ
涼やかな笑顔で手をあげる人が今日もいるはずでした

その顔が見たくて
何度小走りにこの店に急いだ事でしょう


週に一度か二度
6時すぎに会って
七時半に彼が店を後にし
それからきっかり10分後に
私が店を出る

そんなもどかしい
まるで中学生のようなつきあい方を
私達は一年以上続けてきたのでした

(続く)
お昼過ぎ
私は眠りの膜を引き剥がすように飛び起きました

洗面所に水を張って
顔をつけ
自白の拷問のように
水の中でアバアバ声を出したあと
タオルでゴシゴシこすりました
鏡をじっと見ると
生意気にも
頭の悪そうな女が
疲れた顔で見返してきました

私は「チッ」と舌打ちして
「オラオラオラ!」とその女に凄んでみせました

少し気分が切り替わり
力が蘇ってきたので

午後の用事も
先延ばしせずに終わらせる事にしました

ギリギリの時間の中
集中して素早く身支度を整え
バス停に向かうと
走ってくる私を待っているバスに飛び乗りました

「良いおじいさんのバスだ」
運転手さんにお礼を言いながら思いました

この住宅街のバス停には
だいたい交互に
「良いおじいさんバス」と
「悪いおじいさんバス」が来る事が
住民達には語り継がれていました

良いおじいさんバスは
走って来る人を極力待ってくれ
信号付近でも急停車急発進は決してせず

お年寄りやハンディを抱えた方の乗り降りの際は
動作が完結するまで
決して車を動かしませんでした
「悪いおじいさんバス」は…
推して知るべし
なのでした

そして
ここからがすごいのですが、

良いおじいさんの名前
「木戸口良造」
キドグチリョウゾウ
一方
悪いおじいさんの名前
「下道口勝三」
ゲドグチカツゾウ

そしてふたりは
バスが走り出すまで判別つかぬほど良く似ているのでした

京成バスには
ファンタジーがあるのです


クーラーの効いた座席で
しばらく息を整えました

13時台は
この一本を逃すと後がないのです
しかも順番的に次は…
ラッキー


吹き出した汗を拭いているうち化粧もあらかたとれて
いつもの私に戻ってしまいましたが
そのままでよしとしました


どのみち今日
私はある人にお別れを伝えるために
駅近のコーヒーショップ
「かめや」に向かっているのです

(続く)

日差しが高くなり
冷房をつけない室内が蒸し始めました

話の袋もそろそろ尽きてきて
微妙な沈黙の合間に
お互いにお茶やお菓子に手を伸ばす回数が増えてきました

経験上
私にはこのタイミングを逃さずスマートに退出する事がベストだと分かっていました

「あら
こんな時間
アサさん、そろそろ帰りますね」
私は少し大袈裟なくらいのリアクションで
壁掛け時計の11時50分に驚いた様に切り出しました

しかし

アサさんはまるで何も聞いていないかのように

スッと椅子から立ち上がり
廊下を挟んでキッチンの向かいにある和室の
障子とサッシを開けると
庭に顔を向けたまま
「どうしてかしらね
今年の百日紅は色がひときわ紅いのよ」
とつぶやきました

…やむなし…


私はアサさんとのお茶会の
第一幕が終了し

第二幕が始まった事を自覚しました


例えるなら
第一幕は穏やかな田園風景

そして一変
第二幕は侵略軍と農民の
流血の戦いなのでした


「アサさん
ごちそうさまでした
カップ片付けますね」

私はひるまず話しかけました

一方アサさんは
「そうそう
美味しいお素麺いただいたのよ
今輪ちゃんに茹でてあげるわね~」

今日は負けるわけにはいきません
「私、出かけなきゃならないんです
お休みのうちにやる事いっぱいあって」


アサさん
「紫蘇の葉とね、茗荷もあるのよ~
輪ちゃん
ちょっと庭から採ってきて~」

「私、もう行きますから
また今度ね!」

アサさん
「お出汁がね
冷蔵庫にあるの
昨日作っておいて良かったわ~」

「アサさん!」

「だって輪ちゃんお休みって言ったじゃない
行くところがあるなんて嘘よ!」

(何でこうなるの!?)
私は萩本欽一風に小声で呟きました

残りの半日で
私は銀行に行き
人と会って打ち合わせなければいけないこともありました

でも用事があろうと無かろうと
それを報告しなければいけない理由なんてない

私は段々イラついてきました

それでも
もう一度だけ心を落ち着かせ
アサさんに話しかけました

「アサさんと久しぶりに話せて楽しかったわ
でももう行かないと」

アサさんは機嫌を損ねて
引っ込みのつかない子供のように口をへの字にして涙ぐんでいました

何だか悪いことをしているような後ろめたさを感じながらも
私は素早くカップを流しで洗い、水切り籠にふせて置きました
「まだ来たばかりじゃないの…」
アサさんはサッシ越しに庭を見つめながらまだ文句を言っていました

「じゃ、アサさんまたね」

アサさんは、振り返らず
庭を見つめつづけていました

構わず玄関を出て
木戸を開けて石の階段を駆け下りました

ウワッと襲ってきたコンクリートの照り返しに
クラリと目眩を感じながら
私はどっと疲れが押し寄せてくるのを感じていました

あの、おしゃべりの後の
引き際の悪さが
私をアサさんの家から遠ざけていたのです

それは、日をおうごとに酷くなっていくように思われました

八十歳をすぎても
ヘルパーさんも呼ばず
しっかりと暮らしているアサさんでしたが
あの理不尽な強引さは
やはり年齢に関係していると
認めざるを得ませんでした


自分の家に入ると
私は二階に駆け上がり
寝室の遮光カーテンをぴったり閉めて
ベッドに潜り込みました
浅く鈍い眠りが
すぐに訪れました
息苦しい夢の中
私は百日紅のお茶を
飲み続けていました

(続く)