しばらく
ぼんやりと座っていました

余韻さえない
きっぱりとした終わりでした

一人歩きしていた想いが
なんだか無性に虚しくなり

目をつぶって
ちっともおかしくないのに
くくっと笑っていました

自分で望んで人との関わりを
極力さけて生きてきて

何も誰とも分かち合わず
誰一人として自分の内側に入れず

何の痛みも無いかわり
何の喜びも得られない

私の生きた軌跡には
足跡すら無い気がしました


「さてと」ひとりごちて
席を立って
小さくご店主に会釈をして
店のドアをひいて外に出ました

外はまだ暑さのさなか

駅に向かえば、人波に紛れ込めるでしょうか

時間はたっぷりあるのに
行き場所が見つかりませんでした

路地のU字溝の汚水に
モンチッチが落ちていて
濡れた顔で
私にむかい
恥ずかしそうにはにかみました


むしむしと暑い
ああいやだ



…どうして愛してくれないの?
突然
心の声が口をひらきました

子どもの頃から
問い続けてきた
その呟き…

不意をつかれ
まずいと思いましたが
手遅れでした

私は路地にしゃがみこみました

嗚咽が襲ってきて
私は急いでバックから
ハンドタオルを引っ張り出し
顔を覆いました

(どうして私を愛してくれないの?)

(どうしたら私を愛してくれるの?)

黙れ!黙れ!黙れ!

呟き続ける心の声は
抑えつけるごとに大きくなっていきました

(私を愛して)
(私をぎゅっと抱きしめてください)

「お母さん…」

私は負けを認めました

せっかくここまで
ひとりでちゃんと生きてきたのに

今日の私の心は
そこから目を逸らすことを
許してくれませんでした

「お母さんお母さん…」

私を決して愛してくれなかったひんやりと美しい人

愛の代わりに
いくばくかのお金を残して
死んだ人

ちゃんと生きてきたなんて嘘です

大人になっても
あなたにちっとも似ていなく

ぽんと家から放たれた私は

結局未だに行き着く場所すら
みつけられずに
こうして路地でうずくまっているのです


お母さん
今でもまだ
私が嫌いですか?




嵐が鎮まるまで
ずいぶん長い時間がかかりました

時折
私の横を行き過ぎる人の気配がしました

足を止める人もいましたが

誰も声をかける人はいませんでした


嗚咽が出尽くし
普通に息ができるようになって

バックからティッシュを出して鼻をかみ

私は立ち上がりました


早足で駅ビルに入り
トイレの洗面所で顔を洗いました


出口に向かう途中で
京樽が目に入りました


アサさんはどうしているかしら
あんな終わり方をして
ひとり家にいるアサさんの気持ちを
初めて思い返しました


京樽で茶巾寿司を二人前買いました


ラッシュの混んだバスで
住宅街に戻り
アサさんの家のチャイムを鳴らしました

しばらく待って、もう二回
チャイムを鳴らしましたが
アサさんはお留守でした

(続く)
アイスティーを一口飲んで
笹倉さんが同じものを頼んでいた事に気がつきました

些細な事ですが
私達にはよくこういう事がありました
お互いに貸すために持ってきた本が同じだったり
(椎名誠の水域でした)
お昼ご飯に同じものを食べていたり
思いつきで買ったガムが一緒だったり

些細な事ですけど…


彼の耳たぶあたりを見ながら
しゃべろうと
私は決めていました

目を見ると気持ちが乱れるので
あらかじめ耳たぶを見ようと決めていたのです

シェードを下ろした店の窓から外の子どもたちのはしゃぐ声が漏れ聞こえてきました
そろそろ小学校の下校の時間なのかもしれません

笹倉さんはその声に
少し反応して
ちらりとドアの方を見ました
それから
聞く体勢ができましたよ
という風に
こちらに体を向けました

そのタイミングで
私は一気にしゃべりはじめました

~~~~~~~~~~~~~~これは
好きだと告白するより
ずっと難しい話です

付き合ってもない

親密でもない関係に

別れ話は存在しないのかもしれないし必要ないかもしれない


それでも
一年以上こうして会っている私達

親密と言ってもいいのかしら

そのあたり
よくわからないけれど

とにかく



こういう風に
あなたに会う事が

つらくって、きつくって
限界だと感じ始めているの


あなたが自分の素姓を一切語らないで
私の事も聞かないで

きっちり線引きした中でだけ

本や映画や、そんな話をして

お互いに帰る方向さえ知らず

そんな
暗黙のルールも

最初はそれで良かったはずなんだけど

この先、どちらかが

ふっつりとこの店に来なくなり
それでおしまい

その日を考えると

私の心に占める
笹倉さんの割合が
大きくなりすぎました

ご自分でもわかっているでしょう?


先の展望の全くない恋なんです
育てても実らない恋なんです

今が終わるタイミングです

~~~~~~~~~~~~~~

アイスティーを一口



笹倉さんは
テーブルの上に組んだ手を
しばらく見ていました

それから

何かつぶやきました

私には
「もう少し」
と言った様に見えたけれど
違ったかもしれません

そして

「先延ばしにしていたんだ」

と言うとまた黙り込みました

私は彼のまぶたにかかった前髪を
そっと払ってあげたい気持ちを我慢しました

暫くすると顔を上げて

「やましいことはしていないっていつも自分に言い聞かせてたけど…」

と言うと
突然笹倉さんの視線が
私の後ろの天井あたりで凍りつきました

私もどきっとして
後ろを振り返りましたが
何も見えませんでした


「笹倉さん…」
呼びかけてみると

彼は
ハッと我にかえり

ようやく目の焦点をこちらに戻しました

少し沈黙が続き

「そうだね
これでおしまいにしましょう」
とかすれた声で言いました


それで
おしまいに
なりました


三時間予定の話し合いは
十五分で終了しました



笹倉さんは
そのあと
懐かしむ様子も見せず

伝票を持って席を後にしました
最後に
「もう自分はここには来ないから
輪ちゃんは気兼ねなく店に来ればいいよ」

そう言って
私の頭を軽く撫で

一度も振り返らず出て行きました


カランコロン
最後のベルを鳴らし
ドアが閉まり

笹倉さんが右に行ったのか
左に行ったのか
何も知らない
私だけが
残されました
(続く)
カンコロン

私の押したドアの鐘が鳴り

アイスブルーのワイシャツが
左奥の席で手をあげました
軽く笑いかけて答え
席に向かいました


人は
目に映る相手の何を見て
好意を持ったり嫌いと思ったりするのでしょう
信頼できると思ったり
用心しなければと思ったりするのでしょう

誰か教えてくれる人がいたら良かったのだけれど

私は時としてその判断を
間違えてきてしまったから

いつも人との距離を沢山取ってきたのです

それなのに
私の前にいるこの人に
理由もわからず惹きつけられて
夜の沼の様に静かでいたい私の心は
ぴちゃぴちゃと細波を立てながら
ざわついているのでした


ひんやりとした空気に
コーヒー豆や煙草やウィスキーの樽の混ざった
この店の焦げ茶色な匂いがしました

席に座って
いつものように

「笹倉さん」と呼びかけました
笹倉さんは
何も言わず笑いかけていました

「今日私、沢山話さなければならない事があるんです
私がはなして
笹倉さんがはなして
多分三時間くらいはかかってしまうけれど
お時間大丈夫ですか?」

「今日は明るい時間に会えたから大丈夫です」

笹倉さんの「会えた」という言葉を素早く心にしまいました

マスターが私の脇に
水の入ったタンブラーをそっと置いて
「いつもので?」と目で訊きました
今日は沢山話をするので
「アールグレイのアイスティーを」とお願いしました

(続く)