今日は母の命日です
亡くなってから今日で丸20年
昨年の記事⇩
もうそんなに経つんだね、
お母さん
20年の月日って・・長いよね。
お母さんが居なくなってからの20年、
私は沢山のことを経験してきたんだよ。
亡くなって1年は心気症みたいになって
病院へ行きまくってた。
大切な人がいなくなった悲しみと喪失感、
自分や周りの家族にも同じようなことが
起こるかも…って不安で仕方なかったよ。
でも、時間が少しずつ癒してくれた。
数年後に上の子が生まれ、生後1週間で
義父が急病で倒れてね。義母も色々と
忙しくしてたから産院を出てから休むこと
なく必死に頑張ったんだ。そしたら
無理をし過ぎたのか体調を崩しちゃって。
掌蹠膿疱症が出たり、生後9カ月の時に
心房頻拍になってアブレーションしたよ。
上の子が初めて歩いた時はじいじ(義父)の
方へ行って、泣いて喜んでくれたんだ。
義父はその半年後に亡くなってしまった
けれど、孫に合わせて会わせてあげること
ができて良かった。
そっちの世界で義父から孫のこと
聞いてるかな?
お母さんの孫が生まれたこと、
ちゃんと伝わってるといいな
1歳になってから仕事復帰してね。
非常勤だけど、仕事と子育て両立しながら
頑張って働いてたよ。
リーマンショックの時は常勤に戻って
夜勤もしながら必死に家計を支えたよ。
上の子は朝早くから保育園に行って、
お迎えはいつも延長保育。
休日出勤の時は民間の託児所に預けて
仕事していたから、寂しい思いをさせて
いたと思うんだ。
下の子が生まれた時、私が無理しないように
旦那さんが1ヶ月育休を取ってくれてね。
そのお蔭か体調崩すことなく仕事復帰して、
日々の仕事と学生の指導をしながら
充実した毎日を過ごすことができたよ。
ものすご~く内気で、子供の頃はいっつも
お母さんの後ろに隠れて、挨拶もろくに
できない私だったのにね
下の子が年中さんの頃、また心房頻拍が
出るようになってね。
2度目のアブレーションをして徐脈に
なっちゃったんだ。それでも身体は元気
だったから、2人の子育てをしながら働いて
毎日忙しかったけど楽しく過ごしてた
30代後半の時、急性心筋炎になってね。
原因はウイルスによるものだったけど、
知らず知らずのうちに無理をして身体や
心臓に負担をかけてきたのかもしれないね。
でも、その時は直ぐに回復して、仕事復帰
することができたんだ。
多少心臓にダメージは残っただろうけど、
心筋炎になる前と同じ生活を送ることが
できたよ。
それから2年後、また急性心筋炎に
なっちゃったんだよね。
でも今回は先生の様子が前回と違ってて、
大変なことが起きてると思った。
そしたら劇症型心筋炎に移行しちゃってね。
ヘリで搬送されたり、遠い大阪に行ったり、
2ヶ月半ベッド上生活だったり、再燃したり
3回開胸したり、また転院してみたり…
5ヶ月の入院生活で本当に色んなことが
あったよ。
たくさん悩んで落ち込んで、迷って悩んで、
時には旦那さんと喧嘩をして泣いてみたり…
でもそれ以上に家族や友達からたくさんの
励ましや応援、生きる力をもらったんだ!
何より、命が助かったのは
お母さんがまだこっちに来るな!って
私を追い返してくれたんだって思ってる。
本当に感謝してるよ
でもまさか心臓移植が必要な
身体になるなんてね・・
今、私の心臓には補助人工心臓のポンプが
入ってるんだよ・・びっくりじゃない?
しかも、もうすぐ入れて3年経つだなんて!
こうして20年を振り返ってみると、
病気のことばっかりだね
・・ふと思ことがある。
もし、お母さんが側にいてくれていたら、
また違った20年だったのかな…と。
お母さんが生きていたら・・
北海道旅行に連れて行ってあげたかったな。
約束してたもんね。
色んな所へ出掛けて美味しいもの食べたり、
バカ話をいっぱいしてたくさん笑いあって
いたかった。
悩み事の相談ができてたらな…
お母さんがいたら甘えちゃってたかも…
ううん…本当はもう少し甘えてたかった。
喧嘩や口論も沢山したけどね
でも・・
言いたいこと言い合えたのは、
やっぱりお母さんだったからだね。
もしかしたら病気に罹ることもなく、
今の様な状態じゃなかったかもしれないね。
運命は誰にも分からないけど…
でもきっと、私と旦那さん、子供達と
一緒に暮らしてたんだろうなぁ…
時々、お母さんの友達から聞いた
言葉を思い出す・・・
母は毎日、家の近くの喫茶店で
コーヒーを飲むことが日課だった。
その喫茶店のマスターの奥さんは
母と同級生で、昔からの友達だった。
母が亡くなり、その友達が弔問に
訪れた際に母の話を沢山してくれた。
私の知らない昔の話だったり、
よく話していた会話なんかを教えてくれた。
その中でずっと私の心に残り続けている、
母の想いが詰まった言葉がある。
母の友達:みかんちゃんのお母さんね、
『みかんが夜勤を続けられるように、
私がみかんの子供をみるんだ!』
『子供の頃からやりたかった仕事に
就けたんだから、みかんが困らないように
してやらなきゃ!
私が保育園の送り迎えをして、
ご飯も作ればみかんが安心して働ける』
ってよく言ってたんだよ。
家にある食器棚も、
母『みかんの子供と一緒に暮らすなら
大きい方がいいと思って!』
って大きな食器棚を買ったんだよ。
と、教えてくれた。
食器棚!!!
確かに、食器棚を買い替えた時に
なんであんなに大きな食器棚を買うのか
不思議に思ってた。
そういうことだったんだ!
私が働けるようにサポートすることを
考えてくれていただなんて…
家族が増えてみんなで暮らしていくことを
望んでいたのに、それが叶わなかった
母の気持ちを思うと、
切なくて胸が締め付けられる。
それを聞いた当時は
〝どんなに無念だったか…〞
と思わずにはいられなかった。
その言葉が私の心の中に刻まれて、
思い出しては
〝生きていたかったよね〞
〝孫に会いたかっただろうな〞
〝会わせてあげたかった、本当に〞
〝どんな〝ばあば〞になっていたんだろう〞
そんなことばかり思ってた。
お母さんに会いたい!
命日がくる度、その思いは消えることなく
むしろ強くなっているような気がした。
20年も離れちゃったね。
ちっとも夢の中にも出てきてくれないから、
お母さんの声も雰囲気も笑い方も口癖も
少しづつ忘れちゃってるよ
でも不思議と20年経つと、お母さんが
友達に言った言葉は、私を想っていて
くれたからこそ言ってくれたんだな…
って思えるようになったよ。
その言葉のお蔭で、
20年経った今でも母の愛を感じることが
できてるんだもの
平日は仕事や学校、私も1人で自由に
動くことができないから、今日お墓参りに
行けなくてごめんね。
外は春の日差しが降り注いでる・・
近いうちにお母さんの好きな
カーネーションの入った仏花を持って
家族みんなで会いに行くから!



