最愛の人・・・肺がんの告知から亡くなるまで | 動物や人間の健康など「しあわせな生き方」を考えるブログ@東京都調布市、筋膜リリース、メディセルミニ

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動物や人間の健康など「しあわせな生き方」を考えるブログ。痛みやむくみなど身体の不調改善の対処療法ではなく根本解消を考えるサロンオーナーのブログ。東京都調布市で筋膜リリースを主体としたメディセルミニ・ハイブリットを使用したオイルケアをしています。

※この記事は病気や死別のことに触れています。 
 
前記事より引き続き
 
 
肺がんのステージⅢBという告知。
 
 

ただ、ただ
存在がなくなるかもしれないと
宣告されたことがショックだった。



私は中3の時に母、
20歳の時に父を、
2人とも病気で亡くしていて

 
もちろん、ものすごく悲しかったけれど
ショックの度合いが違いすぎる。



おそらく、隣にいる彼は、
私の絶対的サポーターで
私も彼の大ファンで
お互いを
尊重しあえる良きパートナー。



その彼がこの世から存在しなく
なるなど想像がつかなかった。
 
 
いや、
 
 
そのことはわかっていても
こんなに近い現実だということを
全く理解していなかったのだ。


現実として受け止めて
今後どうしていくかを
次の診察日までに、回答がほしいと言われたが
CIMG0714
(検査の合間に福島「野口英世記念館」へ)
 
 
それを答えたら
「元気なカラダになるんですか?」
八つ当たりみたいな
そんなことを思っていた。
 
 
その時、
「今の状況では手術できないが
抗がん剤や放射線で小さくなったら
手術の可能性も出てきます」
 
 
ドラマでも最近よく使われる言葉!!
 
 
少しでも治る可能性を想像し
彼は1も2もなくすぐに
抗がん剤治療を開始するよう
担当医にお願いをした。
 
 
抗がん剤を投与される前日に入院。
そして投与。
 
 
副作用はすぐにあらわれた。
 
 
髪の毛がぬけ、
肌がカサカサになり
吐き気や目まいを起こす。
 
 
そしてなによりも
大好きな食べ物のニオイで吐き気を
もよおし、結果食べられなくなる。
 
 
抗がん剤を投与されるたび
同じことを繰り返した。
 
 
腫瘍の影が少し薄くなった頃合いに
担当医から放射線治療開始を
勧められ、彼はすぐに承諾した。
 
 
放射線の副作用は声が出にくく
なることだった。かすれて聞き取りにくく
本人ももどかしそうだった。
 
 
ひとりで闘うことがないよう
病院は必ず付き添うようにし、
病気とひとりで向き合わないよう
できるだけ一緒にいた。
 
 
放射線の副作用もあってさらに
食欲が落ち、見た目からして
骨と皮のようになってしまった。
 
 
その状況になってわかった。
彼がラクに介護されるための技術を
わたし自身持ち合わせていない。
 
 
これではいけない!と思い
貯金を切り崩して
介護ヘルパーの資格を取得。
 
 
そして、近所にある介護施設で
デイサービスの職員として勤務した。
 
 
できるだけ、彼の生きたいように
させてあげたかった。
 
 
そして生きる手助けをしたかった。
 
 
タバコが3度の飯よりも大好きな彼。
 
 
一度目の大腸がんが治ったら
何がしたいか?の問いに
「青空の下でタバコを吸いたい」
と、言ってのけた人間だ。
 
 
抗がん剤治療のあと寝たきりになる前、
家の中でタバコを吸おうとするので
「吸うな~~むかっと言ってたんです。
 
 
肺がんですから、
咳きこんだりもしていて
見ていられなかったんですよね。
 
 
亡くなったあとわかったのは
『パチンコ』にせっせと
出かけてはタバコを吸ってたらしいということ。
 
 
彼は、死に対してかなりの恐怖を
感じていたからこそ、
タバコを吸うこと、パチンコをすることで
メンタルを維持してたように思う。
 
 
そんな彼も
腸閉塞を起こしたり、
不整脈で緊急入院を2度ほどした。
 

その後、さらに体力も落ち余命3ヶ月の宣告。
 
 
その時には
病院に入院するか在宅で
訪問看護を受けるようにするか
選択をせまられた。
 
 
彼はあっさり「帰ります」と即答。
 
 
退院の時に、看護師さんから
「奥さんが資格取ったし、在宅の準備も
こんなに進んでるんですよ、ととっても
うれしそうに話されてたんですよ」
と、教えてもらった。
 
 
それを話している彼は本当に
うれしかったのかもしれない。
 
 
家に帰った彼は訪問診療を受け
そのうち点滴もしなくてはならなくなった。
 
 
痛み止めも、痛みがあったら服用するように、
そういわれるようになっていた。
 
 
点滴は24時間。
家族が交換することができる。
仕事のときは、交換の時間を見計らって
帰宅させてもらい交換。
 
 
仕事をしながら、点滴の交換
さらに同時期義母がうつになり、
介護で睡眠時間も3時間あれば良いほう。
 
 
そんな状況で2度ほど点滴の逆流という
ミスを犯し、緊急で訪問ナースにヘルプを
求めたことがある。
 
 
そして・・・。
突然放射線の副作用で
出にくかった声が
普通にしゃべれている日があった。
 
 
私はとうとうその日が来たんだな、と
別な部屋で号泣したあと
子どもたちに
 
 
「今日はお父さん、調子が
いいからたくさん話しなさいね」
 
 
と伝えたが意味はわかっていなかった。
 
 
案の定、その日は
ご飯もしっかり食べられて
子どもたちは回復の兆しだとよろこんだ。
 
 
私は来るべき時を意識した。
 
 
その日の夜、彼は
「まだ早いよな」とポツリ。
 
 
「まだ早いよ。でもさ・・・
12年前にダメだったかもしれない命が
ここまで延びたんだとしたらすごくない?」
 
 
そう言ったら
 
 
「俺もそう思う」と少し楽になったようだった。
 
 
そして「たのしかったな・・・」と。
 
 
「俺が死んだあと生活できるか?
いま仕事してるから安心したけど
生活費とか大丈夫か?」
 
 
「ムリムリムリムリー!
生活できないよ!
いてくれないとさみしいよ!」と
本当に言いそうになった。
 
 
彼の優しさに甘えているだけじゃ
きっと前に進めない。
 
 
彼に宣言した。
「大丈夫!何とかなるし、何とかする!」
 
 
そういったときの彼の安堵した顔は
いまでも忘れられない。
 
 
自分がいなくなるということとは。
 
自分自身がどうなるのか?
 
残された妻や子どもはどうなるのか?
 
 
そんなことをいつも考えてたんだな、と
余計に切なかった。
 
 
翌日、子どもたちが学校へ行ったあと
彼の容態が急変した。
 
 
訪問ナースに連絡をし
待っている間あまりの苦しさに彼は
「苦しいのにどうして救急車を
呼んでくれないの?」と
元のかすれた声でいった。
 
 
訪問ナースが到着するのも
救急車が到着するのも
時間的に大した時間ではなかった。
 
 
でも2人にとってこれほど
長く苦しい時間はなかったと思う。
 
 
救急車で運ばれ、病院についた時
目もすでに焦点が合っておらず
呼吸も浅く、すでに意識がない状態。
 
 
痛み止めの投与の緊急処置をし
病室を案内された。
「大丈夫だよ、いるからね」と言った瞬間
 
 
半身が起き上がり
「本当に頼む」と訴えたいのと
「ありがとう」と言いたいのが伝わった。
 
 
そばにいた看護師さんがそれを見て
本当に驚いていた。
 
 
そしてその夜、ちょうど12時頃
自分の存在をアピールしたかったのか・・・
誰もさわっていないのに
彼の大好きなテレビのスイッチがONになり
その数時間後、静かに息を引き取った。
 
 
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