基本的なことを書くときは、

それは、万人に共通していることもあるので、

色は、消してあります。

 

個人の色をよけて書くと。

 

 

時代、それ相応の、

気づきのかれこれの話は、

それぞれ違うものになるでしょうが

 

こと、ある気づきに関して

 

古の賢者たちは

名前に出来ぬ『それ』を

語ってきました。

 

 

今日では、知性に

『理解』という座に

明け渡す感じで

 

譲歩し、『知性』に

理解させているの

かもしれません。

 

 

それは、

本当には違うことですが、

知性が満足するところで

折り合いをつけた

 

虚像の探求とも

いえるかもしれません。

 

 

 

虚栄心と、エゴは、

増大しますが

 

なぜなら、『知性』への

譲歩だからだと

思っています。

 

 

『それ』は、「知っているよ」

と知性はいいたいのです

 

なぜなら、最大限を超えた

ぬきんでた感覚を得ながら、

「差」を感じられるからだとも思います

 

 

 

けれど、おそらく、

古の賢者たちは、

知性にソレをさせることなく

 

純粋に「ソレ」を目指して

闊歩しました

 

 

 

そこには、ある種の

真剣さがあり

 

 

それは、知性を満足させたり

そういう明け渡しでは

ありませんでした

 

 

おそらく、賢者たちは

「知性」には、永遠にそれは

理解できないと思っていたのかもしれません

 

「知性」をもつ「個人」

それが手を伸ばし推し量れる

ワクグミ

 

その範囲をもって

手に入らないと。

 

 

 

じゃあ、知性に近づけさせず

個人にも近づけさせず

それをさせることなく

近づくには、

 

 

どうしたら

よかったんでしょうか?

 

その者の目線にある

眼差しが、生命の奥深くと

繋がっているところまでは?

 

 

この問いの中で、

数々の探求が

派生していったのかもしれません

 

 

 

 

 

ここで、空海の探求を

先に書きましたが、(何個か前の日記で。)

 

ここで注目して欲しいのは、

各流派が到達するところが同じ(ある境地)

ということではなく、

 

その探求の毛色の違いです。

 

 

空海の書いたものを読むと

それは、「いま への至り方」を

書いているのではなく

 

「世界への働きかけ」の

仕方を書いているようにも思います

 

 

空海は、「ソレ」への同一

を最終地点にしていません

 

「真理を掴むことができるのは誰か?」

 

と問われたのなら

 

ある意味

「眠っていた自己」

 

とも言えるかも知れません。

 

 

こういうコトをいうと、

言葉遊びをして

 

「掴む何者をもいない」

 

 

と言えば、真理から離れずに済むという

頭でっかちの極地のような人が

あらわれてくるかもしれませんが、

死ぬまで、遊びとしてやってて下さい

 

(一首

 

『生命を足で踏みつけながら

その叫び声に気づかぬ様は

なんと哀れなことで』 )

 

 

 

空海は、真理を加速させる道

を歩んだとも思えます

 

それは、集合的な叡智が

「ソレ」へと到達する速度を

早めるための道であり

 

合一を通り過ぎた生命の

ある横っ飛びの気づきのようです

 

 

それまでの自己は、

合一をゴールとしていましたが、

 

世界と合一した自己が

さらなる方向として見出したもの

といえるかもしれません

 

 

それは、

「道とひとつになること」

ではなく、

 

「道に対する影響力をもつこと」

のようなものだったのかもしれません。

 

 

 

シュタイナーの探求に

あやかるのなら、

 

まるで、それは、

キリスト教と仏教の

合理的合一かのようにも

思えます。

 

 

 

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ここで、色を出します

この色で彩られた個性は

個人的なものですが

楽しんでもらえると嬉しいです

 

ある詩です

 

圧巻の三味線を

聴きながら。。。

 

 

 

 

 

 

 

『黄金の菩薩は、

 

その周りに

車座に座る

8人の高弟に対して

説法をする形で座る

 

 

時、華やかで、

鮮やかであり

静けさと黄金の空間の中で

 

ただ、色のついた

花が朱(しゅ)を放っている

 

おなじく、

同一として

黄金の菩薩として座るとき

 

同時に高弟の8人

として座るとき

 

その享受にある空間の

間と間の関係を識る。

 

 

命の説法が

内と、内に響いている

 

 

黄金の所作は、

世界を明るく輝かし

 

同時に、聞くものと、

話すものの両方の気持ちを

理解する

 

 

密技の一連の習得は、

開始の産声をあげ

 

体得するものは、

鮮やかな曼荼羅に

遍在しているがゆえに

非常に鮮やかであり

 

 

世界が、各視点から鮮やかに

目撃されるあまり、

極彩色である

 

 

あまりにも極彩色がゆえに

その存在たちは

かく存在たちに深く根ざす

 

 

各知性は、

譲歩しあい、溶け合う(という)ことはなく

 

確固とした個性の中

輝いていることに

 

一個、一個

各個として気づいている。

 

 

色づいている

 

個から世界へ深貫(しんかん)した

ときは、無への直撃だったものが

 

世界へ深貫(しんかん)した

個と無は、鮮やかな

極彩曼荼羅に貫通した

 


※極彩曼荼羅=極彩色のまんだら

 

 

貫通する世界に見えるものは、

極彩色への遍在と感応であり

 

それゆえ、世界の命と共に

歩いている

 

たずさえていた真理は

あらゆる生命に離散し

それぞれの生命がそれを

それ固有にいだいている

 

 

それゆえに、

有していないけれど

 

鮮やかに微笑む

 

その鮮やかさの

中で、はるか遠くのこととして

忘れ去られ

 

もはや、誰が

握ったのかも分からない

 

けれど、そんなものが

どうでもいいことは

 

その鮮やかさと

あまりにも極彩色の世界の

鮮やかさであり

 

まるで、すべての

命の眼をもったようであり

 

その「座」が

あらたな立脚となり

個性がただ光っている。

 

 

それは、

忘れていた草に光る

朝露のような

まばゆさを持ち

 

個性に笑顔

たらしめている

 

黄金の菩薩は、

微笑み

 

シンボルとしてくれて

ありがとう と言う。

 

ある意味

その黄金の菩薩は、

あらゆる生命を

姿にした 即応した

応身とも言える

 

 

その融合は、

その領域をもって

成され

 

曼荼羅たる個は、

 

各個たる個として

地を歩みだした。』