顕教・・・言葉で伝えられる教え
密教・・・言語化不可の教え


※ここでは、ちょっとニュアンスが
違って、本当は空海の定義に
のっとります。


思うに、顕教 教学で学んだ人は、
その顕教が顕しめるところの空(くう)

に立脚して論理展開、
あるいは、理解たらしめている。

立脚が、常に、
誰かが表しめれた空(くう)
に立脚するために、

甚だその立脚は、盤石であるし、
理解足るところとなる。


おそらく、密教は、立脚が違う。


おそらく、密教は、
密教たる、大曼荼羅に
いきなりの立脚を持ち、

もし、その場所が
立脚不可の座であるなら、

このサイケデリックな無限曼荼羅に、
直感的な整合をもって、
立脚出来ねばならないかもしれない。


もしかすれば、その持ち物は、
「菩提心」、「慈悲心」であり


なぜなら知性は、
顕教で満足するからかもしれないからだ。


絶対的満足を超えるには
何が必要か?


それは、もしかすると、
生命を見つめる目であり、

この正しい慈悲心を
発心するまでの土台が無ければ
その場所は、目に入らないかもしれない。


つまり、この場合の発心修行は、
「慈悲の発願」となり、

それが先行し、足場を運びうる場
としてのはじまりとなるのか。

生命を見る目でなく、
自分を見る目であるなら、

顕教の理解で
知性は、多大に満足し、
足場は知性に立脚するだろう。


密教の事の起こりは、
何としても生命に貢献したい気持ち
がその事の始まりにある気がする。

つまり、立脚は、
知性でも、満足でもなく、
投げ出されている。

どこに、立脚してもよい覚悟。
遍在的に大曼荼羅に、立脚するのは、
常軌を逸している。


満足する心もなく、
落ち着く場所もなく、
足場は流れている。


空海がやってのけたことは、

秘密曼荼羅十住心論の中で
表現されていたことは、

つまり、
進化への系譜のように思う。

立脚は、やがて、立脚不可の
極彩色の曼荼羅の上に。

知性は、とまどい、己は混乱し、

しかし
金剛薩埵なる遍在と同一のそれは、
利他業を行うのだろう。