※顕教=言葉で伝えることが出来る教え

※密教=言葉で伝えることが出来ない教え

と、ここではしてみます。

 

 

 

 

おそらく、
密教は、それを伝える言語がない

感じてもらうしかない
触れてもらうしかない

けれども、
人は、知っている範囲で
それに触れようとしてしまう

合理的に
理屈っぽく

それは、顕教の範囲で収まる話であり

それを越えたものは、
その範囲内でチューニングできない

ラジオで、別の宇宙の番組を
チューニングするように

そんなことできない

でも、頭で分かったと
その「分かった範囲」で
とらえてしまう

もちろん、
本人は、「分かっている」と思っている
なぜなら、その範囲で捉えている可能性があるから

その人の宇宙では
「分かっている」
となると考えてみよう


けれど、触れえぬものを
触れえるものの所まで下げて
触れたとて

真の味わいが感ぜられるんだろうか?

その人の知的ワクグミの中では、
そう説明のつくものも
「そのワクグミ」に依存しているのかもしれない


顕教的な話を、十分に理解し
論ぜ、世界がそうなっているという
一連の物語を提供できていたとしても

触れえてないものも
あるのだろうか?

密教の話は、
顕教では、触れ得ないのなら

顕教の範囲で話せば、
顕密の一致として、
包含されうるものとして

話されるかもしれない


それも、正しい
なぜなら、そこで話されているからだ


けれども、
密教を密教のままダイブするとき

それは、たとえば

知識、理解、情報

を超えたものであると
いま、してみよう

するとどうするか?

たとえばの話でしかないけれど

どうするか?

ワクグミを一旦壊し
再度触れてみる
触れようとしてみる


空海の書いた
十住心論の中で

方向性として
示したものは

その、「なんらか」の
触れえぬものへの飛躍とも思われる


もちろん、
顕教の中に
包括された密教として
密教を話すことも出来る


けれども、
たとえば、

その外にあるものは?

 


ある日の
ポエムを
 
 
静かな響きに、
身を任せてみる

よりどころとする
安心する世界を説明する物語も無く

意識は、右往左往

どこにも、よりかかれない

十分に慣れてくると

暗闇で、目が慣れるように

何かが見えてきた

飼い犬たちの鳴き声


秘密曼荼羅の応旨は、

泣き声に曼荼羅を含ませた


含ませられた曼荼羅に

即応する形で

世界認識が

いま、曼荼羅になった