2040さんが無いという、業(カルマ)について | 【ガイヤのえがお】 必要なものが、必要な時、必要なだけ、の社会をめざす。    神聖政府、神官光の絵師

ネコとカルマは関係ありません笑

 

2040さんが無いという、業(カルマ)について

私も体験していますから、カルマはあると思いますが、40さんは無いという意見も納得します。

 

それは、カルマが無いといった方が

歪んだカルマの毒から解毒できるからと思います。

 

この話は、地上に降りた天使のある高貴な魂から学んだ話です

 

今日は業(ごう)すなわち仏教の教えでは、前世のむくいあるいは、この世での善悪の所業について述べたものですが、それについては誤ったところを正し、正しい定義を与え、法を学ばれる方々の正しい指針としたいと思います。

 

業(ごう)すなわちカルマは大別すれば四種類あります。

 

第一のものは人間の本能に根差すものです。

 

第二は先祖伝来の気質や国民性から来るどうにもならない性格、考え方、例えば日本人は一般に、感情的で非理性的、思考の段階も浅く、深くつき詰めて考えないで、すぐ結論を出し、多分に好き嫌いによって事の選択、賛否のいずれかを決めます。

 

要するに塾路断行型ではなく、浅く思考し、直ぐ付和雷同し、非理性的で扇動に弱い所があります。非個性的あり、正論か曲論か深く考えて選ばす、世論の動く方へ押しやられ、また逆らいもしない。

 

これは過ちを正し、納得するまでその書信を問い、真理を受け入れるにやぶさかではないという、いわゆる【物の解る】タイプとは正反対なのです。

 

感情に任せて事を定め、大勢に個人の意見を無視されても仕方なく、マスコミの好む方に押しやられる――それが従来の日本人のどうにもならない業(カルマ)でした。

 

アメリカ人にはアメリカ人の業(カルマ)があり、イギリス人にはイギリス人の業(カルマ)があります。

 

第三のカルマは、両親から受け継いだもの、遺伝的な性格上の弱点、欠点であり、環境的に周囲と強調しようとする過程で形作られてゆく性癖で、社会生活の中で仕方なく作られてしまう性格上の欠点などがあります。

 

第四のカルマは、これも第三と共通のものが多く、個人の性格上の弱点、欠点などです。

善悪に対する身の処し方が判断の目安となります。

 

仏教思想および宗教思想では、個人の責任に呼びかけても、人々の意識や知的水準が低い場合には、心がけを変える事は出来ませんから、前世の報いでこうなった、だから今世ではその報いを来世でに持ち越さぬよう一生懸命善事をなして、その罪業の一つ一つを消してゆきなさいと説き、それが行き過ぎて、先祖を祀らないからその報いで一家が病気勝ち、離散、事故に遭い、不運な毎日を過ごさねばならない、と言われるような、新興宗教に口実を与え、喰物にされるようになのです。

 

人々の未知への恐怖心を掻き立てるのです。これは、原始宗教と同じ性質を持つものです。現代の科学的合理的な生活をする、少なくとも文明圏にすむ知的水準の高いあなた方が二千年、三千年前の考えに退行し、前世があるから、来世があるから、祭儀を完全に取り行わねば、霊となった死者の気嫌を損じ、どんな報いを受けるかもしれないとか、三次元でいわゆるカルマを無くしてゆかねば、来世に持ち越し、困った事になるといった幼児的な考えは一切捨てて頂きたいのです。こういった考えを迷信的と申します。信仰の誤った道に迷い込んだ人々の形容詞です。

 

理性的、常識的に考える時、自己の責任において考え、行動をし、語り合い、他に迷惑を掛けない、傷つけないといった民主的な考え方を生活に採り入れる時、すべての人がそう努めて生きる時、業だとか、カルマだとか、因縁あるいは宿命といった被支配的な考え方は、出てこなくなるでしょう。

 

あなた方は、神の前に平等であり、誰の奴隷でもなく、だれに屈するものでもないのです。天災は仕方ないにしても、人災は他から来るものではなく、自らが作り出すものなのです。

 

業(カルマ)や原罪などという本人がどうにもならぬような印象を与えるものを記憶にしみ込ませて悲観的な人生を生きるのは止めましょう。

 

うまくいかない、事故に遭った、病気になった。これらはすべて、自らの工夫が足らない。注意や知恵が足りない。つまり自分のやり方にどこか誠意や知恵が工夫が足りないのだと思ってください。

 

【運命】といった悲劇的な考え方や言葉は用いず、自分達が世界を創り出してゆくために、種々努力しなければならない。【親の因果】【前世の報い】などといった前世紀の遺物のような古めかしい考えは捨てて、そういったものを餌に信者を増やそうとするまがいものの宗教には動かされぬこと――またこういったことを非理性的な、他がそうするからしなければ、といった無批判な人々に教えて上げて頂きたいのです。

 

愚しい宗教思想は切り捨てねばなりません。文化生活と曽祖父母の宗教思想とはそぐわないものです。そのようなものに惑わされていては、いつまで経っても人間として精神の成長も知的開発もなされず、魂の修行とは僧侶の修行だぐらいの、知識と認識しか得られないのです。

 

天(源・創造主・神・管理者)が求める悟り(魂)とは賢明な対人関係であり、工夫に富む合理的な生活態度であり、感情に走らず理性的に物事を処する生き方であり、賢者を範となし、徳を備え、正義と不義をわきまえ、善悪を職別する知能であり、愛と慈悲に心より出ずる善我に根ざした言葉と行いの全き人生の叡智を指すのです。

 

女も男もそのようにならねばなりません。でなければ、天の一員として、銀河人の一員として、資格ある、天の信頼し得る魂とはならないのです。

 

このような魂の修行が面倒であるとする怠けものは天は必要としないことを改めて私は明らかに致したいと思います。

 

備考:魂の修行とか天・神とかの概念に抵抗を感じている方が多いと思います。それは、誤った闇の社会システムで、毒された生活習慣から、銀河人が普通に常識としているもので、地球人の非常識さが業(カルマ)の思想に現れています。

 

銀河人は、天・創造主の存在は信じていますよ。五次元への移行に相応しい波動・周波数は、魂の修行は欠かせないものであることを、知って頂けましたら幸いです。

 

光の絵師