神を見ずに信じるとは、自分の内に、他人の性格の内に、天・神を感じ取り、識ること | 【ガイヤのえがお】 必要なものが、必要な時、必要なだけ、の社会をめざす。    神聖政府、神官光の絵師

 

光の絵師のひとりごと

 

身近な肉体の親族がボットとなり、目の前でデセンションして行く泣

身近な魂の家族がボットとなり、目の前でデセンションして行く泣

 

何故、身近に天(源・創造主・神・管理者)があなたの心の中で手を差し伸べているのに

あなたの全てを包括して、抱きしめ、手引きしているのに、信じず、離れていく。泣ふとん1ふとん2ふとん3

 

どこへ行くのか、

 

天から離れても、いつの日か目覚めて、暖かい天の思いに触れて、天に戻るのに、

なぜ、そんなに遠回りしたいのだろう。

 

永遠に近い日々を過ごさなければ、闇の毒を解毒すことが出来ないのだろうかびっくり

今の生活の生きるため、食べるために、がむしゃらにドタバタしている生活より笑

 

もっと、もっと、原始的な、生活を余儀なくしなければならない選択をするのだろうか

 

人間の特権でもある考えることを放棄してまで、

人間の特権でもある、愛され愛する幸せを感じることを放棄してまで、

 

人間の特権でもある、天と共に歩む人生を、

その幸せをなぜ、放棄するのだろう

 

夜明けの前4時45分に小鳥の歌声が聞こえる

小鳥たちの励ましの歌声いつまでも聞いていたい

 

天の素晴らしい歌声をありがとう照れスタードキドキドキドキドキドキ

よし、また頑張ろう

 

以下の話は、天使から聞きました。

 

神を見ずに信じるとは、自分の内に、他人の性格の内に、天・神を感じ取り、識ること

愛は感情ではなく最上の理性のあらわれでるように、信じるということは、無条件の服従を意味せず、心のうちに立てられた確信を言うのです。神を見ずに信じるというのは、あなた方の人生と生活の中で、自分の心のうちに、他人の性格のうちに、【天】を感じ悟り、識るということなのです。

 

訳注:識るとは、知るに近いですが

「識る」は「しる」と読み、意味は以下の通りです。

1つ目は「深く理解すること」という意味で、ただ事実を認めるだけではなく、価値や本質までしっかり理解することです。

2つ目は「知識を自分のものにする」という意味で、知識として得たものを自分の人生に生かせる様になることです。

3つ目は「ものごとを正しく見分ける」という意味で、違いが明確に分かり、種類分けできる程詳しくなることです。

上記に共通するのは「本質を悟る」という意味です。

 

天はいかなるものか、創造主の世界はいかなるものか、霊能者のみではなく、すべての人が識りうるものなのです。宇宙の法則は愛であり、神・天である。己を犠牲にして他に尽くすのは愛の一つの姿です。何かを守ろうとするために行動するのが愛のあらわれの本質なのです。

 

そのためにもちろん、深慮が必要です。正しく見て、正しく思う、中道、中庸も必要です。そして愛とそれ等悟りの手段が一体となって人に備わった時、パニャパラミタが開いたといいます。義はここに正しい方向付けをなされ、神がその人に宿るといわれるのです。

 

信じることにより、人は苦悩や煩悩から逃れることができ、又信義によりお互いを守り、保護することもできます。信義は苦悩や煩悩を超え、害や悪をうち負かすための防壁でもあり、建設的な考えをもつ者の精神なのです。

 

信じるというのは、内にこもるものでなく、それだけ外にむかって出ざるを得ないものです。愛がその人を善へと駆り立てるように、信もまた人を義へと走らせるのです。