愛のはたらき(前半) | 光のエレベーター

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光にそっと乗るだけであとは輝きながら
昇ってゆくだけ・・・大丈夫!
五井先生、ありがとうございます。

 私はマイクの前に立って、こうやって皆さんの
顔を見ながら、何を話そうかとか、今日は
これについて話そうかとか、そういうことは一切
考えていないのであります。
 だから、質問をどうぞというのは、質問を
きっかけにして、私は、神様のこと、神様が
どんなに人間を愛しているかということ。
 で実は、神様の愛の働きによって人間が
生かされているということを伝える。そういう
場所に私がなるということなんであります。


 だからいつか申しました様に、釈迦が来る
こともあるし、キリストが来ることもあるし、
老子が来ることもあるし、色々な人が私の体に
降りて来て、そうして、その方面のことを
しゃべってそして又出てゆく。だから、私の体と
いうのはカラッポなんだとね。私は、生命はもう
神様の中へ帰しました。
 帰した時に、とに角まあキリスト教で言えば、
“御心のままになさしめたまえ“というあの主の
祈りの中の、ああいう気持ちになって。
 自分がなったんじゃない、何か奥の方が
なって、そうして、そういう活動をなにかしら
させていただける様になって、今日になって、
今こうして喋べっている訳ですけれども。私
というものは一切無いんですね。何があるか
というと、神様の愛がある。それだけなんです。
 その愛というものは、私の為だけにあるんじゃ
なくて、これは実は、我々人間全体の為にある。
 この地球世界の自然とか、色んなものが色んな
形で生きていますけれども、それこそ、生きとし
生けるものの有りのままの姿をそのまま生かして、
さながらに生かして、その生命が完うする様に
というので、その愛が注がれている。その愛の姿
というものを、皆が、ああそうだなと思って
納得して感動して、そうして、それぞれが静かな
想いになって、神様というものにね、その想いを
はせた時に、皆が神の子なんだということに
なっていきますでしよ。


 そして次には、他愛ですね。他を愛すること。
 他を愛することというのは、自分のまわりを
確認できることなんですね。
 自分のまわり、自分の生命が何によって支え
られて、まわりの人の色んな親切だとか、色んな
想いだとか思いやりだとか、そういうもの
によって生きてる。生かされているということを
確認する。この現実の世の中でね。そして、自愛
というのは、そういう感謝のおもいを今度自分が
確認して、そうして、じゃあ何をすればいいか
ということになると、自分を本当の意味で
労わってね、そして生きてゆく。その自分を
本当に労わるということの中には、人間の心には、
色んな姿があります。見たくない、こんな自分は
確認したくない。こんな自分は見つめたくない
という想いがありますよね。ですけれども、
それをずっと見て、ああこういうやり切れない
ものを人間は持ってるんだな。そこが自分の
中で確認できれば、人間というものは高められて
ゆく訳。


 人間というものは弱いですから、何かあれば、
神様仏様とすがるけれども、何もなかったら
やっぱり、そっちの方へ想いが行かない。だから、
色んな祈り言葉があるというのは、その
祈り言葉を階段にしてね、そうして、自分の
本当いえば姿、自分は何なんだということを
突き詰めて考え、そうして又知らされる。その
為に祈りがある。そうすると、我々を生かしめて
いるものは神の愛でありますから、その神の愛
というものを、神様のというものをとって
しまっても、神様の愛が人間の中に働いて、
そして、我々が生きているとすれば、この愛の
働きというものはどういうものかということに
なると、これは森羅万象すべてにわたっている
ということになってしまうと、説明のしようも
ないものでありますけれども。


 とに角、愛というものは何かというと、まず
一つには、自愛ですね。自分を愛することですね。
 想いを確認して、それを抱きしめるんじゃ
なくって、それをパーッと祈りの中へ放す
わけです。祈りの中へ入れちゃうと、それは
どんなに業に満ちたものでも、あるいは闇という
ものがあっても、それは光になりますから、
祈りの中へ投げ入れちゃってね、あるいは、神様、
五井先生といって投げ入れてしまったらですね、
それは業は業でなくなるんですね。そこで消えて
ゆく訳ですね。そういう意味で、自分を愛する、
自分を確認する、自分を労わる、ということは、
自分の中にある人間の色々な心の姿を一つ一つ
取り出して、そして浄めて、浄める為に祈りを
して、そのおもいをまわりに、その祈りを
まわりに巡らしてゆくと。そういうことがある
訳です。それが一つの愛というものの実相なわけ
ですね。


 愛というものは限りがありません。ここまでが
愛でこっからが愛じゃないとか、ここまでは愛情
だけれどもこっから一歩は愛じゃないとか、
そんなことはありません。限りがなくって尽きる
ところがなくって、その尽きるところがないもの
に支えられているということがわかりますと、
人間はどうなってゆくかというと、もうとに角、
自分の生命というものは窮まりがないんだという
ことに、だんだん気がついてゆく訳です。
 なぜかというと、人間を支えているものが
神様の愛で、しかも私共がいつも申し上げて
おりますように、人間の生命というものは肉体
だけのものではありません。貫いてずっと
むこうの世界まで行ってもまだまだ続いて
ゆくのが生命ですから、つまり永遠の生命
ですから。
 その生命を貫いている愛というものが尽きる
ということがなくって、生命というものも尽きる
ということがないとすれば、じゃあ人間の働き
というものは、そこに気がついてみると、そこに
気がついてゆくと、本当に充実しきった想いに
なってゆく訳ですね。何があっても壊れることは
ない。絶やされることはない種、生命の種という
ものを自分の中に持ってる。ね、持たされている。
 あるいはいただいてるということに気が
つくとですね、こんな喜びはない訳ですね。
 そうすると、自然に自分の気持ちが
落ち着いてきて、今色んなことがあるにしても、
自分は尽きることのないものを貰ってるんだ、
神様から貰ってるんだ。神様の愛というのは
無限なんだということになってきますと、
だんだん、荒い肉体を囲んでた業の波動という
ものが、祈りによって浄められてきまして、
気がついてゆくに従って、荒いはずの波動が
細かになっています。
 そして、細かになってきて、だんだん色んな
人の色んな想い、やりきれない想いだけじゃ
なくって、心を求めている、人を求めている、
淋しがってる、そういう人の想いに人間という
ものは気がつくようになってまいります。
 そうして気がついて、それに感応して関わりを
もって接していきますと、そこに何が生まれるか
というと、そこに愛念というものが生まれて
まいりますね。そうして、それがどんなに
細やかなものであっても、その間に働くもの
というのは、深いものがございますから、
そこで生まれてくるものは本当に光明に満ちた
もの、光に満ちたもの、愛に満ちたものになって
ゆく訳です。そんな風にして実は、人間という
ものは気がつかない内に、この世の中で、
一歩でも二歩でも進歩をしよう進化をしよう
といって、歩みを止めては本当はいないもの
なのですね。

             (後半に続く)