白光ベーシックvol.7・8から 勝手に転載

 前編は『神聖軸』から『他人軸』にそして『神聖軸』に

 

 ★次の章は私にとって『消えていく姿』についての考えを【特に】変えさせた章

 『★印』以下は私の考えです

 

◾️消えてゆく姿がなくなるとは?

 

しかし、私の軸足が「人間は本来神の分なんだ」という地点に戻ったことで、

 

消えてゆく姿は減ったかというと、それは違うのです

 

消えてゆく姿は引きつづき起こるのですが、

消えてゆく姿の捉え方が変わることによって、

消えてゆく姿がどんどんと手放されていくのです。

 

そうすると、消えてゆく姿が来ることにも恐怖を持たなくなるし、来たところで大丈夫だと思えるし、

 

そう思えることで、面白いことに消えてゆく姿はどんどんなくなっていくのです。

 

 ★軸足を『他人軸』から『神聖軸』に変えるために消えていく姿がある(目的)

 ★消えていく姿が「一切なくなる」ことが目的ではない

 ★消えていく姿が

  「起こっても恐怖心が無くなり、大丈夫だと思える」事のほうがすごい

 

例えば、「人が自分を批判しているんじゃないか」というテーマの消えてゆく姿がある場合、それを乗り越えれば乗り越えるほど、つまり人が批判してくるということに

 

恐怖や不安を持たなくなれはなるほど、それは来なくなるのです。

 

 ★この視点は無かった

 

そうすると今度は、別の消えてゆく姿のテーマが来ます。例えば、病気に対する不安の消えてゆく姿が来る。死に対する不安の消えてゆく姿が来る。でも、仕組みは全部一緒です。

 

だからこそ、一度でも軸足が神の視点に戻ることによって、見え方が変わり、それによって消えてゆく姿の意味が分かり、消えてゆく姿の対処方法が分かってくる。

 

そうすると、違うタイプの消えてゆく姿が来でも、そこに対して同じような方法で向き合っていくことで、自然に超えることが出来るのです。

 

消えてゆく姿を自分の中にすぅ一っと通してあげることによって、

 

それを自分の中で光に変容させ、浄化させることによって、消えてゆく姿自体がなくなるというか、自分の一部にそれが光として入ってくる。

 

すると、その消えてゆく姿の分だけ自分の視座が上がり、世の中の見え方が変わり、より神としての生き方に近づいていくのです。

 

私がなぜこんな話をするかというと、

 

消えてゆく姿に怯えずに生きられるようになることで、皆様お一人お一人が、ご自分の人生に与えられた天命を必ず生き抜けるし、完うすることが出来ると思うからです。

 

しかし、それを今すぐに分かってもらいたいわけではないのです。

 

私がそうであったように、

 

五井先生のみ教えを分からないなりにも読みつづけたり、

美先生のみ教えをとにかく実践していこうとする過程の中で、

 

私が今、言っていることは、必ず分かるようになるのです

 

 

◾️消えてゆく姿が感謝に変わる時

 

消えてゆく姿は

 

私たちを汚したり、傷つけるために起きているのではありません。

私たちが過去にしてしまった過ちの罰や報いとして起きているのでもありません。

 

 ★間違って解釈しがちだと思う。カルマの法則も「神になるためにある」と

  過去に読んだ本(白光以外で)にあったけど、懲罰的に解釈されがち

 

五井先生が「人間と真実の生き方」の中でおっしゃっている

 

「過てる想念」とは、「自分は神ではない、自分は神聖ではない」という想念です。

 

 ★白光の教義のだけでは分かりづらいのでは?と思う

   「我即神也」の印でははっきり言っているわかりやすい

 ★ここではっきり言われた事は重い

 

その過てる想念を軸に自分が生きてしまったところから、消えてゆく姿は生まれてくるわけです。

 

なぜならば、「自分は神ではない」が軸足にあると、人は自分の内側を見つめようとはしないし、「こんなことが起きるのは、相手のせいだ」と思うようになります。

 

 ★「自分を責める想い批判する想い、驕り高ぶる想い」についても同じと思う

 

そして、相手が間違っていると思い、相手を非難し、批判し傷つけると、そのことは残るのです。自分が神の視点ではないこの世的な視点や、三の五感で受け取った情報で、相手や出来事をジャッジし、それによってその状況を何からまい具合にやり過ごしたとしても、それは必ず残っているのです。

 

その時は何とか乗り越えたとしても、

 

内なる神聖や守護霊様・守護神様は

 

「それは、本当は違うよ。あなたがそうやって相手を罵倒して、力で押さえ込んだやり方は違うよ」ということを、

 

後から必ず消えてゆく姿を通して、教えてくれようとするのです。

 

「本来は、人間は神聖であり、自分も神聖だし、相手も神聖なのだ。それを知ってよ」と、教えてくれるのです。

 

神聖と神聖で向き合っていくと、プラスとマイナスが融合した形で光に変容されていく。

 

それこそが神聖な軸で生きていくことの意味なのだと再確認させてくれるために、消えてゆく姿は起きるのです。

 

そのことに気づいた時、人は消えてゆく姿が恐怖や不安ではなくなるのであります。

 

このことを通して自分はどんな神聖軸を体験し、どんなふうに進化創造し、どんなふうに視座を高めることが出来るんだろう、という気持ちで消えてゆく姿を受け取れるようになります。

 

そして、私は視座が高まったな、と思えた時、深い感謝の気持ちがわいてくるのです。

 

 ★「消していただいたから感謝できる」だと思っていました

 

十年、十五年の前の私だったら、「消えてゆく姿は早く消えてほしい」とひたすら願っていたと思います。

 

とにかく消えてゆく姿の現象に、頭や心が煩わされることすらなくなってほしいから、何かが起きた時には「世界人類が平和でありますように、消えますように、消えますように」と祈っていました。

 

 ★こういう体験談を聞ける事は大切、学びがある

 

そういう消えてゆく姿の行じ方を、まずはやってもいいのですが、

 

究極的には消えてゆく姿に感謝できるところまで行き着くのです。

 

ああ、この消えてゆく姿で真実がまた一つ見えた、本当に有難いな・・・・・・と。

 

これは、今すぐにそう思ってほしいわけではないし、有り難いなと思いましょうと言っているわけではありません。有り難いなと思える日が必ず来るということなのです。

 

いつか来るという、その事実だけは知ってほしい。

 

けれども無理やりその境地に一足飛びにジャンプしようとすると、善的なやり方や方法論だけになってしまい、消えてゆく姿を消すことがより遠回りになってしまいます。

 

だからこそ、私たちはこの三年未満の会という場を作りました。

 

一歩一歩丁寧に進んでいくことによって、

 

必ず私がお伝えさせていただいたところに、みんな行かれるのです。

絶対に行かれるのです。

 

なぜなら、皆様方は、五井先生と昌美先生のみ教えに惹きつけられて、この会に入ってこられた方々だからです。五井先生と昌美先生のみ教えは、「人間は本来、神の分(わけみたま)である」という軸から一切ぶれていません。皆様は、そのメッセージに惹きつけられ、「もうその本来の軸からぶれない人生を生きよう」と決めた方々なのです。

 

あとはどうやってそこに到達すればいいのかというノウハウを丁寧に積み重ねていくことで、必ず到達できるのであります。

 

消えてゆく姿を恐怖、不安に思わない。消えてゆく姿が起きても淡々と不動心でやり過ごすことが出来る。それによって、

 

消すことが目的ではなく、神聖軸を見出すことが目的であったと気づくのです。

 

なぜ消えてゆく姿が消えるのかというと、神聖なる軸に立ち、視座が上がることで、

 

それが見えなくなり、気にならなくなるからです。皆様には、必ずそういう日が来るのだということです。

 

つづく