■グルイズムを超えた修行法について

 さて、新団体について、よく聞かれることとして、元代表をグルとせずに、どのように修行を進めていくかについて、今回は、お話ししたいと思います。

 まず、「グルがいないと修行ができない」という考え方は、仏教やヨーガ全体の考え方ではありません。

 仏教の修行においては、密教でこそ、グルが強調されますが、釈迦牟尼自身が説いた上座部(テーラヴァーダ)の教えでは、ご存じのように、それはありません。
 
 むしろ、釈迦牟尼は、「釈迦牟尼を含めて、人を崇めることを否定する教えを説いた」ということが、仏教研究上は、広く認められている事実です。弟子たちに、「めいめいの自己と法則を帰依処とするように説いた」ということです。

 ですから、「グルがいないと修行できない」というのは、「グルイズムが強調された、この教団の一種の固定観念である」というくらいに考えることができます。

 では、これらの釈迦牟尼の教えについて、以下に引用したいと思います。

大パリニッバーナ経(大完全煩悩破壊経)より

 アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか?
 わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。
 完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、存在しない。

『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。

しかし向上につとめた人(※漢訳では「如来」となる)は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。
 向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。

 アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。
 アーナンダよ。譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。

 しかし、アーナンダよ、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。

 それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
 (中略)
 アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。

(中村元訳『ブッダ最後の旅』1980、岩波書店)

 この経典を見ると、釈迦は、「自分が教団の指導者である」ということを自ら否定していることがわかります。
 その代わり、「めいめいの自己と法をより所にすべきである」としています。これは、「自灯明、法灯明」と呼ばれる有名な釈迦の教えです。

 次に引用する経典では、釈迦が、「私(釈迦)を仰いでも何の意味もない」と言明する部分があり、釈迦牟尼個人を崇拝してはならず、崇拝すべきは法であることを示している経典として、有名なものです。

『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部経典)より

 釈迦は、弟子・ヴァッカリの余命が幾許もないと聞き、家を訪れたが、その時、病いに臥せていたヴァッカリは、
「末期の思い出に、今一度、世尊の御顔を仰ぎ、御足を頂礼いたしたいと思いました」
と言った。
 その言葉に応えて釈迦は死期の近いヴァッカリに、厳しく言い放った。

「汝は、この私の爛懐の身(壊れ爛れる無常の体)を見てもなんにもなりはしない。
汝はかく知らねばならない。
法を見るものは我を見る。我を見るものは法を見る」

(中村元訳『ブッダ最後の旅』1980、岩波書店)

 

■ダライ・ラマ法王が強調する、師ではなく教えへの信

 さて、次に引用するのは、ダライ・ラマ法王の見解です。この著書『宇宙のダルマ』の中で、法王は、「師ではなく、教えに対する信を持て、と説いており、しかも、それを示唆する釈迦牟尼の教えを引用しています。

 この解釈学的なアプローチで重要なのは、大乗の四つの信の理論です。それは、

(1)師ではなく教えに対する信、
(2)言葉の表現ではなくその意味に対する信、
(3)一時的な意味ではなく真実の意味に対する信、
(4)知識ではなく深い体験から生まれる超越的な智慧に対する信
からなります。

 四信の理論の一番目は、教えを聴いたり論書を読んだりするとき、そこで述べられていることの妥当性を、語り手の名声や財産、地位、権力にもとづいて判断すべきではなく、教えそのものの価値にもとづいて判断すべきだということです。
 二番目の理論では、著作の判断は文章の形式によってではなく、主題についてどれだけしっかり論じているかによって行うべきだと言っています。
 三番目の理論は、命題の妥当性について考えるときは、その一時的な意味ではなく、究極的に言わんとしている内容によって、判断すべきだと命じています。
 最後に、四番目の理論は、真理を信頼する場合、経験を通して獲得した智慧と理解の力にもとづくべきであり、理論的知識だけに頼ってはいけないと述べているのです。
 このアプローチの妥当性を示す証左となる一節を、ブッダ自身の言葉の中に見いだすことができます。彼は次のようにすすめています。

  おお、比丘たち、そして賢者達よ、
  あたかも金職人が、
  焼いて、切って、擦って、金を試すように、
  私の言葉を、吟味して、受け取りなさい。
  私への崇拝の念だけで受け取ってはいけない。

(ダライ・ラマ14世『宇宙のダルマ』1996,角川書店)

 こうして、グルイズムを非常に重視してきたチベット密教において、その最高指導者であるダライ・ラマ法王が、「師ではなく、教えに対する信」を強調していることは、非常に興味深いことだ、と思います。
 
 この背景にあるものは何かというと、法王の最近の言動を見て考えるに、チベット密教の総帥でありながら、自分の宗教さえも盲信せずに、極めて科学的で、その意味で、知的な姿勢を保っていることがある、と思います。

 彼は、まず自分自身を盲信しません。自分が生き仏とされているのに対し、「自分は普通の人間である」、「自分には神秘的な力はありません」と語ったりします。

 また、仏教や密教の教義についても、「経典の主張が科学と矛盾するならば経典の方を否定すべきである」と語り、仏教の伝統的なスメール山を中心とした宇宙論を否定するなどしています。

 もしかすると、この背景としては、チベットも優秀なラマが少なくなり、その一方で、いろいろな問題のあるラマができてきていたり、科学の発達に伴い、伝統的な経典が時代遅れになっていたりする、という事情があるのかもしれません。

 法王の側近のカルマ・ゲレク・ユトク師も、
「人間社会のあらゆるレベルにおいて地位を濫用した重大な過失はごく一般的なものになり、チベットのラマたちも同様である。最近、多くの不適任でインチキなラマが増えている。彼らが自分たちの生活を営むために法(ダルマ)を口にしてあらゆることをなしている。」
と語っています。

 こうして、この21世紀の時代環境では、人にしても、経典にしても、何かを単純に盲信するのではなく、依存心を超えて、一人一人がしっかりと考えて判断することが、重要な時代である、ということなのかもしれません。

 

■グルがいない場合の修行法を説くヨーガ根本経典

 最後に、密教とならんで、グルイズムが重視されているのがヨーガですが、それでも、『ヨーガ根本経典』においては、グルのいない場合の修行の方法が説かれています。

 しかし、本物のグルに出会うということは今日まれな幸運ですが、昔も事情は変わっていなかったと思います。
 そこでグルに出会うことができない運命にある行者は絶望的かというと、そこに救いとなるのが、自在神のめい助を祈願するという方法です。
 自在神はグルのグルなのです。

(佐保田鶴治著『ヨーガ根本経典』1983,平河出版社)

 こういうくだりを読むと、仏教の中に浄土信仰が起こった事情などがわかるように思います。
 こうして、ヨーガでも、グルイズムだけが、修行を進める方法ではないということがわかります。

 そして、代表派では、その修行体系の中に、(1)釈迦牟尼如来が説いた、自己(の仏性)と法則に対する帰依の実践と、(2)ヨーガ根本経典が説く、自在神に祈念するための真言・瞑想や、それと合致する、大乗仏教・密教の仏陀・菩薩の真言・瞑想の修行が既に含まれ、実践され始めています。

 それは、代表派の信徒・サマナによって、既に相当に修習されていますが、具体的な修行体系についてご関心のある方は、ブログの方をごらんください。

 最後に確認となりますが、代表派が予定する新団体では、元代表には特に位置づけをもうけず、元代表への信仰を推進することはありません。元代表の信仰ではなく、多くの人々と分かち合える教えの実践を推進することが、新団体の目的です。

 

■全ての人々がグルである、という教え

 加えて、新団体は、「全ての人々、生き物、存在が、ある意味でグルである」という考え方を持っています。

 これは、「全ての現象は、自分の心の現れ、カルマの投影である」という仏教の法則に基づいて、「全ての人々に、自分の善業、悪業が投影されているのであるから、自分の教師、反面教師として学ぼう」という教えです。

 もう少し、宗教的に言えば、「全ての存在は、自分たちの教師・反面教師として、この宇宙の全てを創造した神が、仏陀が現したものである」という考え方です。

 こう言うと、創造主を強調するキリスト教の発想のように聞こえますが、インドの哲学でも、「全ての現象はブラフマンの現れ」とする不二一元論が主流です。
 そのため、有名なラーマクリシュナ・パラマハンサの教団でも、「全ての人々を神の現れとみて奉仕すること」が最上の教えだとされています。

 また、密教の一部では、「全ての存在は大日如来の現れ、仏の現れ」とします。
 チベット密教でも、生起次第の瞑想・マンダラ観想法などでは、「全てが仏の現れであり、この世に不要なものは一切ない」という境地を体得しようとします。

 そして、新団体は、これを徹底的に推し進めようとしています。

 これは、ある意味で旧教団の対極を行くものです。

 旧教団は、元代表がキリストであり、私たちの唯一の絶対のグルでした。その意味で、元代表という一人の人間だけが、神の現れと位置づけられました。

 一方、新団体では、特定の一人の人物を神の現れとして見ることを否定した結果、突き詰めたところ、全ての人々に神の現れを見ることができる教えを重視する、という結果になったということです。

 これは、もちろん、誰に何を言われてもそれに従う、という意味ではなく、全ての人々について、「法則に基づいて、自分のカルマが投影した教師、反面教師として学んで、尊重する」という意味です。

 それはともかくとして、「一人でなければ、全てになる」というのは必然だと思います。

 旧教団では、元代表を神の化身とすることで、それに従わない社会は、否定されることにもなりました。

 また、今現在の教団の分裂においても、元代表の過去における言動を絶対とすることに加えて、元代表がいない中で、誰が元代表の代わりの神なのか、誰が一番正しいか、という視点から、多くの人がものを考えているように思います。

 そこでは、「誰が正しいか」=「誰が神なのか」ということが全てであって、人は皆誰でも間違いがあるものであり、誰か一人を選ぶのではなく、「何が正しいか」ということをしっかりと考える必要がある、という視点は、非常に弱くなっています。

 一方、全てが神の現われ、全てがグルという新団体の思想を追ううちに、私は、単に全ての人々から学ぶのではなく、さまざまなものから学ぶことができることを体感し始めました。

 それは、人だけでなく、全ての生き物、生きていないもの、そして、大自然・大宇宙にまで及びます。

 少し大げさに言えば、全ての人々、そして、大自然が、私の新しい師、グルとなって立ち現れてきつつある、ということもできるかもしれません。

 

■一元の思想による崇拝の対象の大転換=全ての存在が師であること

 ここ数年、日本の中の聖地から、いろいろなことを体験しました。

 その中には、当然、伝統的な神社仏閣もあります。その中には、「旧教団の中にしか神聖なエネルギーはない」と考えてきた私たちの固定観念を打ち破るような、素晴らしいものもありました。

 もちろん、全てではないですが、いろいろ見ている中で、素晴らしいものがあったことは事実ですし、私が素晴らしいと見つけたものを、多くの他のオウム・アレフの出家修行者、在家信者にも紹介し、その中の多くの人が同様の印象を持ちました。

 無限の慈悲を感じさせる仏像がありました。宇宙大の大きさと、限りなく繊細な優しさを兼ね備えて。また、壮麗な仏像もありました。旧教団時代には、一切が否定の対象であった日本の宗教性ですが、その見直しが始まりました。

 しかし、聖地とは、神社仏閣に限りません。むしろ、神社仏閣は、古来、自然の聖地とされていたところに、後から作られた、というケースがほとんどです。

 だから、大自然からも学びました。森、川、山、海、空。

 その中で、仏教はそもそも自然に育まれた宗教だという認識が生まれました。開祖である釈迦牟尼は、菩提樹の下で悟りました。その前に、川の畔で、少女の供養した乳粥を飲み、川で沐浴をしました。

 日本は山国で、森が多いですが、仏教も森の宗教と言われています。森には、当然、木だけでなく、清らかな小川があり、近くの山々があり、透明な空があります。

 川を流れる水のしなやかさ、どのような地形にも柔軟に適応して、怒ることなく、軽やかに流れていくさま。そして、天と地を循環し、全ての生命にとって、最も重要な一つとなっています。

 空や海の広大さからも、学びました。善人も悪人も区別せず、全てを包み育むその広大さ。日本の生んだ偉大な宗教家が、空や海を自分の宗教名にした気持ちもわかったような感じがします。

 陽の光からも、学びました。万人に分け隔てなく自分のエネルギーを注いで育むその慈愛。そして、暗闇を照らし、物事を識別する力を与えるその光。古来の聖者が、陽の光を慈悲や智慧の象徴として、ご来光と呼んだ理由がわかったような感じがします。如来の光という言う意味ですね。

 そして、聖地・自然を巡る間に、非常に不思議なことも起こりました。奇跡的というか、偶然の一致というか、神秘的というか。ニューサイエンスでは、シンクロ現象などと言われるようなものです。

 こうして、元代表のみを師としていた私たちにとって、元代表に代わる新しい師として、立ち現れてきたのは、全ての人々であり、全ての生き物であり、大自然であり、大宇宙の全てでした。

 そういえば、古来、人の中に、王という神の化身が生まれる前は、人間は、大自然に、大宇宙に神を見いだしていたと思います。人の中に王が生まれ、その民としての民族・国家が形成されて、人類は発展してきましたが、それゆえに、大規模な紛争・戦争も経験しました。

 21世紀は、人類が、自分たちと大自然、大宇宙は一体であり、大自然・大宇宙を敵対関係と見て、それを科学技術で克服しようとする西洋思想ばかりではやっていけないことは、地球環境問題を見れば議論の余地はありません。

 自分たちの本来の姿、すなわち、大自然の一部としての人間、そして、それに基づく宗教思想、すなわち、人だけではなく、大自然全体に存在する神というものを考える必要がある、と思います。
 
 もちろん、その中で、教団の内外のさまざまな方に、さまざまな形で、お世話になりました。オウム・アレフの信者と知っても、広い心で受容し、貴重な助言を与えてくださった方も、少なからずいらっしゃいました。

 こうして、元代表に代わる私の新たな導き手は、一人の人間の中ではなく、

 全ての人々の中にも、全ての生き物の中に、生き物ではない物の中にも、聖なる大自然の中にも、立ち現れてきました。

 私は、これは非常に重要な新たな信仰のあり方であり、新団体の重要なポイントであり、さらには、21世紀の人類にとって重要なことだと思います。

 

 

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