ここでは、事件の要因の一つとなった、オウムの密教的な教えを総括・反省した上で、それを乗り越えるために、今後のひかりの輪における密教に関する思想・実践を示したいと思います。
(1)オウムにおける「グルを絶対とする」教えの解釈の過ち
オウムでは、グルを絶対とし、グルに対する絶対的な帰依・服従が、タントラヴァジラヤーナという密教の教えの実践であると説かれました。これが、事件の一因になったことは周知の事実だと思います。
そこで、チベットなどの伝統的な密教の教えを総合的に研究・検討した結果、確かに、密教の教えの中には、グルを完璧、絶対的と見ると解釈できるような教えが説かれていますが、その教えに関するオウムの解釈は、伝統的な密教の解釈と大きく違っており、過ちであった、という結論に至りました。
この違いについて、具体的に言えば、チベット密教が説く教えは、
① グルが絶対で完璧だ、という事実ではなく、あくまで、弟子である自分のエゴを弱めるための修行法として、そのように見なすことである。
② グルに対する帰依の実践というのは、グルが常に正しい、と考えなければならない実践ではなく、グルに弟子の悪業が投影されることもあり、その場合、弟子は、グルの悪業から自分の悪業を反省しなければならない。
③ 密教的な帰依・実践をする前に、グル側だけでなく、弟子となる側も、その土台として、様々な条件を満たす必要があって、自分が(特定の密教のグルに)帰依するべきかどうかについて、慎重に適切に判断しなければならない、という大きな責任がある。
というものでした。
この点について、チベット密教関係者の教えを以下に引用します。
◆密教は、「グルが完璧である」という客観的事実を主張しているのではないこと
カルマ・ゲレク・ユトク師 ダライ・ラマ日本代表部事務所の元代表
「法師(=グル)に欠点を見出すことなく、完璧な存在として見るよう指示しているが、これは(法師が完璧であるという)客観的事実とはほど遠く、本来、弟子の主観的自我を清めることを意図したものである。」 (ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のHPから引用)
◆グルに弟子の悪業が投影されたと考えるべき場合もあること
第9代カルマパ、ワンチャ・ドルジェ師
「もし一見してグルが解脱した人にふさわしからぬ行動をしていると感じ、グルが仏陀だと思うのは偽善的だと思ったときには、......グルはあなた自身の欠点を映し出しているのです。よって、グルをよく見、グルから自分自身の欠点を取り除く方法を学んでください」
◆密教的な実践をする弟子には、帰依すべきかどうかを判断する重大な責任があること
カルマ・ゲレク・ユトク師(前出)
「...ある人を自分の師とするにあたって、慎重かつ注意深くやらなければなりません。
急がずに、十分に時間をかけて、法師の行動、性質に常に注意をはらうことが、基本として挙げられます。
師の候補となる人についての情報を信頼する人から聞くこと、関わりを持つ以前の彼のスピーチやダルマ説法を聞くこと、彼の日常の生活や行動をきちんと吟味すれば、これから自分の法師になろうとする者について知ることができます。
...その条件を有する法師は、学識かつ経験を積んだダルマを体得した人であること。正直で平静かつ謙虚な者。最高の真理を会得し、それに従って生きる者。生きとし生けるものに溢れる慈悲の心を持つ者。精神的な師としての務めに常に励む者。
...もう1つは、真の倫理を守っている者。真の分別の知恵を守っている者。真の利他主義を守っている者。上記の条件に十分相当する師は、この世でどんなに貧しい身分でも、たぐいまれな精神的師と言えるのです。」
このように、伝統密教では、「グルが本当に完璧である、絶対的である」と説いてはいません。それは、「弟子のエゴを弱めるために、グルを完璧・絶対と見なす、考えるようにする修行法がある」ということにすぎません。
しかし、オウムの場合は、「グルが完璧、絶対である」から、信者はグルに犯罪行為を指示されたとき、それに従わなければならないと考えるケースがありました。
よって、弟子が自分とグルの個人的な関係の中で、すなわち、自分の心の中でグルを完璧と見るように努めることはよいとしても、第三者を巻き込んで、グルを絶対として第三者を殺すことを正当化する教えではないと解釈すべきです。
そうでなければ、自分の帰依の修行のためには第三者を犠牲にしてよいということになり、弟子のエゴを弱めるどころか、逆に、エゴを増大させる実践になります。こうして、オウムは、グルへの帰依という名の下に、なかなか自分達では気づかない、自分たちのエゴ、煩悩を増大させてしまっていました。
さらに言えば、信者がグルを絶対・完璧であると考えるならば、その瞬間から、自分たち自身を、グルの指示があればこの世の中で殺人を含めて何をしてもいい存在にしてしまうことになり、これは「私たち=信者自身を絶対化」してしまうことになると思います。
そして、伝統密教では、密教の教えを実践する場合に、そのグルだけではなく、弟子となる側にも、正しいグルを選ばなければならないという重大な責任があると説かれています。
しかし、「この弟子側の責任」という考え方については、オウムでは全く言われず、オウムの信者は、こういった責任を全く果たさずに、密教の教えの実践を行ってしまうという過ちを犯しました。
(2)ひかりの輪における、脱グルイズムの思想
こうしたオウムの反省に基づいて、ひかりの輪では、グルを絶対者・崇拝対象とするグルイズムを超えた思想を形成してきました。
そのために、ヨーガ・仏教の教えを再度研究し、「グルがいないと修行ができない」という考え方は、仏教やヨーガ全体の考え方ではない、と結論しました。
仏教の修行においては、密教でこそグルが強調されますが、釈迦牟尼自身が説いた上座部(テーラヴァーダ)の教えでは、ご存じのように、それはありません。
むしろ、釈迦牟尼は、「釈迦牟尼を含めて、人を崇めることを否定する教えを説いた」ということが、仏教研究上は、広く認められている事実です。弟子たちに、「めいめいの自己と法則を帰依処とするように説いた」ということです。
ですから、「グルがいないと修行できない」というのは、「グルイズムが強調されたオウム真理教の一種の固定観念である」というくらいに考えることができます。
では、これらの釈迦牟尼の教えについて、以下に引用したいと思います。
『大パリニッバーナ経(大完全煩悩破壊経)』
(岩波文庫『ブッダ最後の旅』中村元訳)
アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか?わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳[にぎりこぶし]は、存在しない。
『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人(※漢訳では「如来」となる)は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。アーナンダよ。譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。
しかし、アーナンダよ、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。
それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。(中略)
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
この経典を見ると、釈迦は、「自分が教団の指導者である」ということを自ら否定していることがわかります。その代わり、「めいめいの自己と法をより所にすべきである」としています。
次に引用する経典では、釈迦が、「私(釈迦)を仰いでも何の意味もない」と言明する部分があり、釈迦牟尼個人を崇拝してはならず、崇拝すべきは法であることを示している経典として、有名なものです。
『サンユッタ・ニカーヤ』(相応部経典)より
釈迦は、弟子・ヴァッカリの余命が幾許もないと聞き、家を訪れたが、その時、病いに臥せていたヴァッカリは、
「末期の思い出に、今一度、世尊の御顔を仰ぎ、御足を頂礼いたしたいと思いました」
と言った。
その言葉に応えて釈迦は死期の近いヴァッカリに、厳しく言い放った。
「汝は、この私の爛懐の身(壊れ爛れる無常の体)を見てもなんにもなりはしない。汝はかく知らねばならない。法を見るものは我を見る。我を見るものは法を見る」
次に引用するのは、ダライ・ラマ法王の見解です。この著書の中で、法王は、「師ではなく、教えに対する信を持て」と説いており、しかも、それを示唆する釈迦牟尼の教えを引用しています。
ダライ・ラマ十四世著『宇宙のダルマ』より
この解釈学的なアプローチで重要なのは、大乗の四つの信の理論です。それは、
(1)師ではなく教えに対する信、
(2)言葉の表現ではなくその意味に対する信、
(3)一時的な意味ではなく真実の意味に対する信、
(4)知識ではなく深い体験から生まれる超越的な智慧に対する信
からなります。
四信の理論の一番目は、教えを聴いたり論書を読んだりするとき、そこで述べられていることの妥当性を、語り手の名声や財産、地位、権力にもとづいて判断すべきではなく、教えそのものの価値にもとづいて判断すべきだということです。
二番目の理論では、著作の判断は文章の形式によってではなく、主題についてどれだけしっかり論じているかによって行うべきだと言っています。
三番目の理論は、命題の妥当性について考えるときは、その一時的な意味ではなく、究極的に言わんとしている内容によって、判断すべきだと命じています。
最後に、四番目の理論は、真理を信頼する場合、経験を通して獲得した智慧と理解の力にもとづくべきであり、理論的知識だけに頼ってはいけないと述べているのです。
このアプローチの妥当性を示す証左となる一節を、ブッダ自身の言葉の中に見いだすことができます。彼は次のようにすすめています。
「おお、比丘たち、そして賢者達よ、あたかも金職人が、焼いて、切って、擦って、
金を試すように、私の言葉を、吟味して、受け取りなさい。
私への崇拝の念だけで受け取ってはいけない。」
こうして、グルイズムを非常に重視してきたチベット密教において、その最高指導者であるダライ・ラマ法王が、「師ではなく、教えに対する信」を強調していることは、非常に興味深いことだ、と思います。
次に、密教とならんで、グルイズムが重視されているのがヨーガですが、それでも、ヨーガ根本経典においては、グルのいない場合の修行の方法が説かれています。
佐保田鶴治著『ヨーガ根本経典』より
しかし、本物のグルに出会うということは今日まれな幸運ですが、昔も事情は変わっていなかったと思います。そこでグルに出会うことができない運命にある行者は絶望的かというと、そこに救いとなるのが、自在神のめい助を祈願するという方法です。自在神はグルのグルなのです。
そして、ひかりの輪では、その思想体系の中に、
①釈迦牟尼如来が説いた、自己(の仏性)と法則を尊重する、
②全ての人々を神の現われと見て、その人の良いところを自己の教師、悪いところを反面教師として学び取り、全ての人々・生き物・万物を尊重する、
という教えが説かれています。
インド三大聖者の一人として高名なラーマクリシュナ・パラマハンサも、「全ての人々を神の現れと見て奉仕すること」が最上の教えだとしました。仏教の一部では、「全ての存在は大日如来の現れ、仏の現れ」とします。チベット仏教でも、生起次第の瞑想・マンダラ観想法などでは、「全てが仏の現れであり、この世に不要なものは一切ない」という教えがあります。
これは、オウムの対極を行くものです。オウムは、麻原がキリストであり、私たちの唯一の絶対のグルでした。その意味で、麻原という一人の人間だけが神の現れと位置づけられましたが、ひかりの輪では、全ての人々に神の現れを見ることができる思想を重視するという結果になりました。
(3)オウムにおける「五仏の法則の解釈の過ち」について
次に、オウムが一連の事件を正当化するために用いた密教の教えとして、殺人も肯定する「五仏の法則」と呼ばれるものがありました。しかし、これについても、伝統密教の解釈を研究した結果、オウムの解釈は違っているという結論を得ました。
具体的には、ダイライ・ラマ法王は、密教の経典の中には、親や仏陀を殺すことさえ説いている教典があるため、「文字どおりに受けとめるべきではなく、比喩として解釈するべき教えがある」と説いています。
一方、オウムの「五仏の法則」の解釈を見ると、自分たちに都合が良いように、文字通りに受け止めている面がありました。では、この点に関する法王の著作を引用します。
ダライ・ラマ十四世著『宇宙のダルマ』より
また大乗仏教を含む、仏教のさまざまな哲学学派の多様な説明を全体的に考察するには、様々な経典が、それぞれ了義(直接に真理を説いている経典)なのか、未了義(さらに解釈を必要とする経典)なのか、区別することが必要だということも分かってきます。
(中略)ですから、結局は、論理に基づいて、その経典が了義か未了義か、自分で判断しなくてはなりません。このように、大乗仏教においては、論理が聖典より大事なのです。
ある特定の表現や経典が、未了義であるかどうかは、どのようにして決めればよいのでしょうか?未了義の経典には、様々なタイプがあります。たとえば、ある経典には、自分の親を殺さなくてはならないと書かれています。
このような経典の言葉を、文字通り、額面通りに理解するわけにはいきません。さらなる解釈が必要です。この場合、親とは、汚された(有漏の)行いと執着のことです。それらの結果として、輪廻の中に再生する、それ故、そのような汚された行為と執着を断て、という意味なのです。
同じような表現は、「秘密集会タントラ」のような密教経典の中にも見いだせます。そこでブッダは、「仏を殺せ、仏を殺せば、最高の悟りに到達できるだろう」と言っています。もちろん、このような教えを文字通りに受け取るわけにはいきません!
ひかりの輪では、こうした伝統仏教の正確な教えを学び、誤った解釈に基づいて、二度と過ちを繰り返さないように指導しています。
(4)オウムの「ポワ(転移)の教えの解釈の過ち」について
チベット密教で、ポワ(転移)というのは、死期が近づいた者が自分で瞑想して、意識を上に引き抜き、高い世界へ行くというものです。もしくは僧侶が他人に、ポワをほどこす場合、死んだ人に対してです。
それは、間違っても、オウム真理教のように、生きている人に対して行なう殺人行為をポワと呼ぶのではありません。
仮に、もし生きたままの人をポワする=殺すということになれば、そういうことをしてもよい条件としては、いったん殺しても生き返らせる超越的な力がなければならないなどとされています。
この教えの意味するところは、昔の経典の伝説の世界の中ならばともかく、現代には実際に死人を生き返らせることができる人がいないことが明白である以上、事実上、ポワという名で殺すことを厳しく戒める教えになっています。
また、ポワによって高い世界へ転生させたなら、それを神通力によって見せることができなければならないという教えも、チベット密教の教えにはあります。これも、事実上、ポワの名の下で殺すことを厳しく禁じる教えと解釈できます。
しかし、麻原はこういったチベット密教の正統な教えの解釈をせずに、独断的なポワの教えを説いて、一連のオウム事件を起こしてしまいました。
当然のこととして、麻原は、殺した人達を生き返らせていませんし、極楽浄土に行った様を見せることなどできず、正統な密教の教義に照らしても、ポワをする資格もなく、ポワしたわけでもなく、不殺生の戒律に違反する悪業をなしたということができます。
さらに、仏教では、すべての人は仏性(仏の性質)を持っていると説いています、そして、人を殺すならば、その人の仏の要素も殺すことになると教えます。これは、仏教徒として当然なしてはならないことです。
こうして、オウムで行なったポワは、チベット密教のポワと言葉は同じですが、実際は似て非なるものであって、全くの殺人であるということが、密教の正統教義の研究に基づいて判明しました。
ひかりの輪では、こうした伝統仏教の正確な教えを学び、誤った解釈に基づいて二度と過ちを繰り返さないように指導しています。
(5)瞑想法の内容と伝授の仕方に関するチベットとオウムの教えの違い
チベット密教には、「生起次第」と呼ばれる瞑想と「究竟次第」と呼ばれる瞑想がありますが、オウムは、これと同じ言葉を使いながらも、その意味合い・役割がまるで違っていました。
オウムでは、生起次第はブッダや神々などを観想し、究竟次第は生起次第で観想したものが、潜在意識に根付いているか確認するため、目をつぶってボーッと何も考えず瞑想するというものでした。
オウムで行なわれていた小乗のツァンダリーという瞑想を例にとると、チベット密教でいわれている生起次第と究竟次第が混じってしまっていて、それを生起次第と呼んでいました。そもそもチベット仏教の各宗派で伝わっているツァンダリーの瞑想は、究竟次第であって、生起次第ではありません。
究竟次第の瞑想もボーッとするだけではなく、チベット密教では、人間の身体生理学に基づいた瞑想をするために、人間の体の中にチャクラ(霊的センター)というものと、プラーナ(エネルギー)が流れるナーディ(管)を観想します。
また、修行の伝授の方法についても大きな差異があります。
オウムでは、お布施をすれば誰にでも究竟次第の瞑想を伝授していましたが、チベット密教では、そう簡単に伝授はしません。特に究竟次第の瞑想は、初心者がなんの準備もせずに行なうことは、心身に変調をきたし危険だとされています。
また、生起次第の瞑想についても、浄化のための準備段階の瞑想を充分こなしてから、伝授するということで、修行者の心身に無理にならないように配慮すべきだとされていると思います。
ひかりの輪では、こうした瞑想法の伝授の仕方に関するオウムの過ちについても、明らかにしています。
※この記事の内容を補足するものとして、以下の関連記事もご参照ください。
◎仏教・宗教の歴史の総括とこれからの思想
◎【5】オウム真理教型ヨーガ行法・密教瞑想の問題・危険とその解決・改善(※2024年6月追記)