麻原が、前述のように変遷し違法行為へと暴走していった過程で、私たち多くの信者が、なぜ麻原を神格化し、麻原の指示に基づいて犯罪行為に至ったかという点について、その原因を総括して反省した上で、それを乗り越えるための今後の思想・実践を示したいと考えます。

 


(1)キリストの弟子、世界救済の中心にいたいというプライド、誇大妄想的な欲望があったことについて

 

   麻原がキリストであれば、信者らはキリストの弟子となり、世界救済の中心にいることになって、プライドは満たされます。自己の存在意義が満たされます。外部に対して絶対的優位に立つことができます。

 

   そこから、グルが神であってほしいと思う気持ちが強まり、神格化を進めていったのです。背景には、それまでによく見ていた、ヒーロー願望をかきたてる情報(アニメ)もあったと考えられます。

 

   当時の教団では、ただ入会して会員になっただけでも「真理と縁のある徳のある魂」となり、修行して成就者ともなれば、希有で高貴な魂の一員として、教団内で高い尊敬を受けることができました。

 

   社会で卑屈にさいなまれていた人も、教団に入ればエリート感情を満足させられましたし、社会でエリートだった人も、さらに高いプライドを満足させることができたのです。

 

   また、このプライド(誇大妄想)の裏返しとして、教団外に設定された「敵」に対する被害妄想も生じました。フリーメーソン、国家権力等の外敵を設定し、それから攻撃されているという被害妄想を形成すると、自己防衛本能により、結束力も高まり、その象徴としてのグルへの神格化が進んだのです。

 

   悪いことは他人のせいだと考える傾向の強い人が信者となり、こうした考えを助長したとも考えられます。外敵を設定したり、外に意識を向けると、内への分析や冷静な見方ができなくなるという点も注意すべきことでした。

 

   以上に基づいて、ひかりの輪では、信仰実践をする者が、自分の傲慢を極力滅するために、全ての人々・万物を神の現われと見なして尊重する思想を提唱しています。また、世界の救済は、特定の集団だけではなく、人類全体が皆で協力し合って行うべきものであるという理念を説いています。

 


(2)自分で考え、努力するのではなく、誰か完全な人に従いたいという依存心があったことについて

 

   自分の信じた人に従うだけで幸福になれるのではあれば、大変楽であり、そうした依存心が、信者の背景にはあったのではないかと思われます。すなわち、自分の幸福のために、自分が信じたグルが絶対であってほしいという信者側の欲求が、内側からグルの神格化を進めたと考えられます。

 

   その背景として、この現実の競争社会において、多かれ少なかれ、何かうまくいかずに行き詰まっており、卑屈になったり、物足りなさを感じたりして、それを打破するために、何らかの依存の対象を自分でも気づかないうちに求めていた人は少なくないと思います。

 

   また、オウムにはエリートも多いといわれますが、エリートとは、学校教育という教師・教科書を見習うという依存的な行為で地位を得たにすぎませんから、自分自身だけでは、理想を達成することはできないと感じ、エリートなるがゆえの大きなプライドを満たすために必要な依存の対象を求めていたとも考えられます。

 

   さらに、グルに無思考に従う傾向となった背景には、煩雑な人間関係を嫌がる傾向があったのではないかと思います。普通この人間社会では、相手が完全でない限り、人と摩擦し、もみ合わねばならないものです。

 

   しかし、教団内における「グルと弟子との一対一の関係」は、一人の人の言うことをただ単に聞いていればよいだけですから、少なからぬ人にとって、教団内の単純な人間関係は、少なくとも一時的には、非常に楽な人間関係の世界だったのだと思います。

 

   なお、出家教団については、出家者を社会から隔絶する閉鎖性、閉鎖的な情報空間が形成されていたことも、教団の教えや行動をおかしいとは思わせない、客観的な検証を不可能とする、神格化を進めた要因と言うことができると思います。

 

   しかし、これについても、根本的には、信者の依存心の結果として、麻原以外の情報が入らない世界を自ら受け入れて、それを良しとしたわけです。閉鎖的ではあっても、その中の教え・思想・規律に従う限りは、単純で煩わしさがなく、単に言われたことだけをやっていれば幸福になれるという気楽さや依存心の充足があってこそ、信者が自らそれを選択したのだと思います。

 

   その結果として、無思考に従う気楽さや怠惰の裏側で、将来の自分の幸福を破壊する大きな問題が進行し、それが1995年の一連の事件の発覚と麻原の逮捕・教団の破綻という形であらわれたと言えます。

 

   その意味で、過剰・安直に他に依存することで幸福になろうとする依存心や怠惰を超えて、現実の人間関係に対応する忍耐を持って生きていかねばなりませんでした。また、常に、自分自身の信念の是非を客観的に検証するために、外部に対する開放性も必要でした。


   その意味で、仏教を志そうとした以上は、グルイズムに過剰に頼ることなく、仏教開祖の釈迦牟尼の有名な教えである、「自灯明・法灯明」の法則、すなわち、(釈迦を含めた他人に頼るのではなくて)自己と法則をよりどころにすべきある、という教えの価値を再認識しなければならないと思います。

 

   また、オウムの出家教団については、出家という伝統的な仏教的な行為として、物欲・私有財産などの世俗の煩悩を抑制したところまでは肯定できるにしても、その中で、仏教の精神からかけ離れ、被害妄想と誇大妄想に満ちた終末思想の予言世界観にはまり込んで、社会と戦う方向に突き進んだ点については、非常に煩悩的になったことを深く反省しなければなりません。

 

   以上に基づいて、ひかりの輪では、自立的な思想・実践の原則を重視する理念・方針を掲げています。

 


(3)自分自身が麻原・教団からもたらされた(と思った)霊的な体験があったことについて

 

   麻原の指導に基づく修行によって、劇的な精神的・霊的体験がもたらされると、それだけで、麻原を神格化してしまいました。その体験をもたらしたものには二種あり、①通常のヨーガ行法等、②薬物によるものです。

 

   これらはいずれも、必ずしも麻原によらなくても、もたらされるものですが、①信者はそもそもがこうした超常的・霊的な体験を好む傾向があって、その体験と体験に導く者の価値を過大視・絶対視しやすい傾向があったということと、これに加えて、②そういった体験に関する幅広く正しい知識・体験がなく、免疫がなかったために、麻原唯一のものと絶対視してしまったと考えられ、今後の教訓としなければならないと思います。

 

   よって、ひかりの輪では、霊的・超常的な体験に関する冷静で正しい見方をするように提唱し、特に、霊的な体験ではなく、心の解放・自我意識の減少といった、人格の成熟を重視するように説いています。

 


(4)教団の宣伝や他の信者の体験による影響があったことについて

 

   自分自身の体験に限らず、他人が麻原の力でいろいろな体験をしたということを、口コミや出版物等で間接的に知らされて、それを信じ込むことによって、集団的に、麻原への神格化が進んだという面もありました。

 

   しかし、それらの体験は、例えば出版物などでは宣伝の意味で誇張された面も多々ありますし、また、口コミの場合も、帰依が称賛される教団の中では、各信者のプライドのために自ずと誇張される面もありました。一方で、麻原に否定的な事実や体験は、出版物においても、教団内の人間関係においても、隠されていきました。

 

   こうして、信者達は、信者同士の間で、互いが互いに対して、麻原を過大視する方向に誘導(強く言えば洗脳)しあった面があります。それは、一人一人の信者に麻原が具体的な指示をしなくても、麻原への帰依を最重視する教義に基づく教団の精神構造の中で、自ずと起こったものでした。


   また、一定の信者に対して霊的な体験をもたらすいわゆる霊能力が麻原にあったとしても、それは、普遍的な力ではなく、いわゆる縁ある人々にもたらされているものであって、全人類に等しくもたらされる体験とは限りません。このことを理解せず、麻原を世界を統治するキリストであるとする予言を信じたことも、大きな過ちでした。

 

   これに対して、ひかりの輪では、霊的な現象は、縁ある人同士の間では起こりえても、誰に対しても起こる普遍的なものではない可能性を重視して、自分の体験を一般化=絶対化しないことを原則としています。

 


(5)内外の有識者による麻原への評価・権威付けを獲得する教団の活動があったことについて

 

   麻原の権威は、麻原自身の超能力の宣伝だけではなく、多くの外部関係者が関わって形成されていきました。

 

   ダライ・ラマ法王を初めとするインド・チベットの海外の聖者や、中沢新一氏などの国内の有識者、外国政府の関係者、そして、新宗教ブームの中で、テレビ・雑誌等が盛んに麻原を取り上げたことも、麻原の権威・カリスマ・人気の向上の一因となりました。

 

   教団は、これらの評価・権威付けを得られるよう、多額の金銭の提供などの積極的な活動を行ない、聖者・要人との面会や称賛の言葉などを得られると、その背景や状況を無視して、積極的に宣伝に活用しました。本文にも記したとおり、麻原は、「誰かを売り出す際には、確立された権威を利用していくのだ」と語っていました。

 

   こうした教団側のやり方に信者は騙された面がありますが、一部には、信者達が、宗教世界を信じるがゆえに、一般の人よりもはるかに海外の聖者というものを過大視して、彼らが神通力によって麻原のステージを見抜く間違いのない存在であると思いこんでしまったという問題もありました。

 

   これについては、いかに高名な聖者であろうとも、人は人であって全知の神ではなく、麻原のその後の蛮行を予見できない場合もあるという事実を示しています。

 

   そして、このさらに奥にある根本的な原因・背景としては、信者達に、依存心を背景として、権威によって安易に物事の是非を判断して、楽に幸福になろうとするという権威主義的な傾向があったとも思われます。以上のことは深く反省しなければならないと思います。

 

   このようなことからも、ひかりの輪では、人を神としないという原理原則を唱えており、(上祐代表を含めたひかりの輪の)指導員との接し方においても、上祐代表らが自ら、他人に学ぶことは重要であるが、対象を絶対視しないで学ぶ(どんな人にも何か間違っているところがある、という考えをもって学ぶ)ことなどを提唱しています。

 


(6)ハルマゲドン・救世主の登場を自然とした当時の社会状況があったことについて

 

   当時は、20世紀末の時代の中で、ノストラダムスを含めて、終末思想的な予言等が、社会の中に、相当広く流行し、それに関する書籍、アニメーション、SF映画が非常に多く作られていました。


   そして、それらを積極的に採り入れていったのが、麻原・オウム真理教であり、その中には、ノストラダムス、ヨハネ黙示録、ヒトラー、エドガー・ケーシー、ジーン・ディクソン、酒井勝軍、出口王仁三郎といった予言者、そして、ハルマゲドンを舞台とする宇宙戦艦ヤマトなども含まれていました。

 

   そして、それらの映画やアニメでは、破局という暗いテーマをとりあげつつも、その舞台設定の中で、主人公が驚異的な活躍をして、たちまちにしてヒーローとなる内容のストーリーが多くありました。

 

   こうした予言の情報が氾濫し、フィクションのヒーローに共鳴した若者達には、ハルマゲドン予言自体が荒唐無稽なものではなく、その状況下でヒーローになりたいという願望が存在していたと思われます。

 

   そして、それは、多くの若者にとって、自分のある意味では地味な、ないしは行き詰まった現実を大きくチェンジするロマン・夢に感じられ、興奮をそそるものだったのではないかと思います。

 

   そして、自分をヒーローにする上で、自分の力では到底かなわないところに、この人に帰依=依存すれば、それがかなうのではと思わせたのが麻原ではなかったかと思います。弟子が、麻原を安直に絶対化し、救世主として受け入れていったプロセスには、こうした背景心理があったように考えられます。

 

   しかし、オウム真理教の問題をとらえる視点からは、若者のこうした心理状態は、誇大妄想的な傾向であり、実在しない破局と、非現実的な自分の未来の成功を盲信する結果となってしまいました。これは大きな教訓ではないかと思います。

 

   なお、これらの破局予言の流行が受け入れられた背景としては、社会的には、米ソ冷戦による核戦争等への危機感、またローマクラブ等による人類文明の破局予測などがありました。特に、日本では、高度経済成長にかげりが出てきていたため、破局予言がさらなる不安心理をあおり、多くの人が不安に共鳴していったとも考えられます。

 

   こうした傾向は、20世紀が終わった今の時代でも続いており、依然として、破局的な予言のブームは後を絶たず、場合によっては、再び似た過ちが繰り返される恐れもあります。

 

   ひかりの輪としては、こうした教訓をふまえて、上祐代表らの講話において、予言や予言ブームといったものに対する冷静で正しい見方を示すとともに、依然として社会に広がっている予言ブームによる将来の危険性について、幅広く訴えていきたいと考えています。

 


(7)生まれてからの教育や生活で育んできた、二元的世界観があったことについて

 

   さて、以上の視点に加えて、より本質的な問題としては、人の心に潜むプライド・優越感・虚栄心といった欲望を背景として、善悪二元論的な考え方、すなわち、「善なる自分」が「悪なる他者」を成敗するという考え方が、生まれて以来、自ずと身についていたのではないかということがあります。

 

   これは、現実の社会とフィクションの双方において、こういった考え方は多く存在していますが、信者たちの傾向として、善悪二元論に共鳴しやすく、そのため、麻原の説いた「魂の二分化」などの概念を容易に受け入れ、麻原や自分たちの教団を「聖」とし、社会を「悪」と見なして、批判・攻撃する失敗を犯してしまったのだと考えます。

 

   この反省に基づいて、ひかりの輪では、世界を善と悪に極端に二分する価値観を否定し、全ての存在は繋がっているという一元的な世界観を重視し、全ての人々・生き物・万物の尊重を説いています。