物語作家とは
コミニケーションという試合で
まるで
情報の伝え方という点で
柔道のように
巧みな
足捌きで
相手を
翻弄し


自分の思うように
相手を誘導出来る人だと思う。


理性と知識という重心を
どう利用するか
理解して
それを利用しつつ
説得出来る人である


その説得力が
感動にも比例する気がする。



それは
側から見たら
まるで
マジシャンのよう見えるのだと思うが
しっかり
計算された物である。





自分が
満足するという点で無く

まずは
生業として
考えるなら
これは大事


満足は
研究だから
それは
プライベートでの積み重ね

一朝一夕には
行かない物で

まずは
それが出来るように
しないとだよね。



以上。



スカッとする系の物語が嫌いのは
ルサンチマン的
憂さ晴らし的物語観覚が
垣間見える事がある為



そこに
鬼太郎の言う


ねずみ男も
自分と同じだ
という民主主義の前提が
無いように感じられる為





だけど
スカッとするのは好きだし


強制しようのない絶対的な悪がいるのに関しては
理解出来る


だから
ジョジョや
鬼滅
ヒューマンバグ大学は
グロ表現が嫌だけど
絶対的に
納得出来る





小物の悪人を
悪様に笑う人間は
その瞬間
自分も
同じ
小物になってる事に
気付かない。



どうせなら
シリアルキラーや
独裁者
最悪な詐欺師を嘲笑えって言いたくなる。








魔が刺すという事は
どんな人にもあって

そこには

排除で無く

困った奴だなあという感覚が必要だと思う



世界が
生産主義に傾けば傾く程

自分達も
品定めの努力に追われる事になる事を
感じれない人間がいる



本来
作家は
ここに
疑問をエンタメというオブラートを通し
提言すべきでないのか?



暴力はダメだが
感じさせる事


心に細波を起こす自由まで
制限は
与えられてない



そして
それが
力になり
各分野で

暴力運動ではない形で
広まって行けば

人は
技術の進歩に見合う
精神的進歩も出来るのではないか?

楽観的な僕は
そう思ったりもする訳です。


罪を憎んで人を憎まずなんて
そんな綺麗ごとは言えないけど


自分を棚上げする為に
物語を消費するような人間に
僕は
なりたくない



そういうのが
社会的プロパガンダに繋がる物で
行動者責任に当たる物と感じる。




創作物にも
基本的に誠実さはある

問題は受け手で
時々変な奴も
居るって事で

これは
ここに至っては
過失や無過失で
考えるしかないよね



結局
何かに
誠実とは
そういう事だと思う。



魅力的な物語のコツは
斬新さでは無く
テンプレでも
飽きさせず
疲れさせず
没入させ
作者の思惑通りに
ストレス無く踊れるか
どうかだと思う。


以後長文になるので
要約すると
物語作家は
自分の伝えたい事を効率的に伝える為に
どう
相手の理性を 内面的柔術で上手く制する事が
出来るかが
求められてるのだと思う


そして
それを普通の人が
見たら
まるで
マジシャンのように感じるかもだが
それを
意図し出来るようにするのが
物語作家としての能力を
人生にも
当てはめれてる人だと思う。






音楽も絵も
売れる物は
斬新な物とは
限らない

売れた理由として奇抜さと言う表現が
安易だがら
使われるの過ぎない


そりゃ
全く同じなら
飽きられるだろう

手品と同じだ

種は同じでも工夫してるから
斬新に見える


創作の努力も

といういあ手品も
創作という意味では同じだから
創作の苦労を例えるのに
出すのは不適切だと思うけど



それと
同じだと思う。


親しみやすさの中に
自分なりの色というか
今まで出てないニュアンスを出せて
共感する支持を得られたら
ある程度の人気は出る物だと思う



物真似でも
奇抜でも無く
バランスが大事


全ての演芸は
あくまで
コミニケーションの1部であると
捉えて
クリエイターは
コミニケーションの可能性を増やす手伝いをする仕事と
理解するとシックリする感じがする







例えば
一流の作者は
桃太郎をワンピースや
ドラゴンボール
ドラゴンクエストに変える事が出来る


構造的には
同じなんだよね


目的や
世界観や
キャラクターが
違ってくると
物語の運ばしかたや
語られる情報が違って来て

その些細な所に
面白さが
宿る




料理でカレーや
うどんと言っても
色々深みがあるのと同じで



桃太郎や
カチカチ山
かぐや姫
と言っても
魅力は
その人の工夫次第なんだよね




例えば
桃太郎なら

冴えない彼女の作り方とか 龍が如く7とか
桃太郎形式なんですけど
面白いですよね。


主人公は
どんな人物か

どんな境遇で育ったか?

主人公は
何故
旅立つか?(内面的になら どう現状から変わろうとするか?)

その過程で
どんな仲間達と
どのように出会うか?

仲間達同士
どんな関係性を構築するか?


そして
主人公達と因縁が深いキャラ
例えば
鬼に当たるキャラは
どんな人がいるのか



鬼に対して
仲間達で一致し立ち向かえるようになるまでの過程と
実際
立ち向かって
どこまで行くのかを
語れる所に
ストーリーテラーの能力ってあるのだと思います。



ここに
伝えたい概念ねじ込めると一瞬の
プロパガンダになると思うし
全ての表現は
プロパガンダがら自由になれないと僕は感じてる






説経臭くしないようにすればする程
皮肉にも
作家の無意識にある人生に対する興味や
疑問が
作品に滲み出て
作品を通して
読者と共有するのが
物語作りの醍醐味な気がします。









そして
物語の面白さは
作家の汗に比例します

テンプレは使っても良いですが
説得力があるように
もしくは
説経臭く無いように
もしくは
読者に そこを突っ込ませるのは野暮だと思わせるように
色々な工夫をして
作者が感じて貰いたい所に
読者が
身を委ねるように
企画、設計
お膳立て 根回し出来るのが
ストーリーテラーの役目です。





人の感動の仕組みというか
認知からの情動を
どう動かすかっていうには


柔道の組み技のように
結構
先輩が
既に
見つけてくれてて

それを
今風に
そして
自分に使い勝手が良いように
作り直したり
調整するのに
汗が掛かります


そして
時代性と肉体性の制限中で
陳腐化しないように
頑張る所にも汗が出ます。



多分
そんな感じです。






オチは作る必要ありません
沢山 まずは 書く事で落とし方を身につけましょう



しっかりとキャラクターを作り込めば
たられば話のように
自然に動きだします


物語は
空想世界への覗きであり
噂話です。



普通の人は
普通に生きると
子供の時は
出来てても
大人になると
その能力が
劣化して
自分で
出来なくなるので
クリエイターに代行して貰い楽しもうとするのです



そして
リアリティーとは
もっともらしさであり

臭みであり


リアリティーが無くても
受け手に
臭みを与えさせないように
語る事が出来る人は
リアリティーが無いなんて
言われません




例えば
夏祭りの屋台や夜店を
高いなんて言う人居ませんけど
あのような感じで
コンビニや
近くの小売店が売ったら

文句言いますよね








上手く言えないけど
人は
コミニケーションする時



盲目化するフレームが人ごとに違います



盲目化というのは
騙されないように
用心しようとする枠の外という意味で



ここ自由自在に
拡大縮小出来る事が
ストーリーテラーの実践力で
必要な能力だと思います。





勿論
作家性や
情報力も必要ですが

それは
作品を描く前に準備する事だし
出来る事で


作品を描く時に
身につけるべき点は

対人のコミニケーションの時に
自分の意図を効果的に伝える為に
精神や知的柔道において
どう自分に都合の良い足捌きが出来るようになるかを
意識しつつ
他者の作品も
見る必要があるなと感じてます



正直
水泳や野球と違う
物語創作に置いては
他者鑑賞
どれだけ真摯に受け止めれるかで
バカにならないと感じてます





書く力に関しては
足腰みたいな物で
これは
総合力ですからね






でも
収束していきますよ



ゴールが決まってるならね









これが
今の
僕なりの創作論です。









さて
僕は
どこに応募すれば良いか見通しが付かないのですが

まずは
自分に為に
プロットやアイディアとか
まとめれるだけまとめようと思います。









魅力は
汗かきという点で言うと


将棋で言う詰将棋のように
どう感情と印象を動かして
相手の理性の中で自分に都合の悪い働きを制限し
都合が良い働きだけをするように情報を出していくかという汗の書き方と


どれだけ引くか


つまり
説経でなく
描写する事で
わかる人にはわかるように
滲ませるかというのも
汗のかきどころですね


先程の桃太郎で言う所の

桃太郎の故郷や
途中の状況
鬼ヶ島の状況や
時代性などは



作者がわかっていて
ストーリーテリングの時の際に
ブリッジとして効果的に働かせれば良い知識ってにもある訳で


要は
ハモに対する
隠し包丁的努力が
引き算の
努力で


この2つを
疎かにしない事が大事







具体例で言うと

桃太郎的 フィックションで言うと

冴えない彼女の作り方とかね


鑑定眼で成り上がるとかね


あれ
立派な桃太郎ですよ







作者の意図が
思いテーマを語りたい時
説経臭くしない為に
豊富なキャラクター同士のエピソードで
誤魔化すと言う手法がある




食戟のソーマ
スクールランブル
スケットダンスは


実は
主人公や
ヒロインや重いテーマを抱えてるキャラクターが
登場人物の中でも
更に
アクセントのように
1部いるが
それだけだと
窮屈になるので

照れ隠しのように
外野の
多人数で
わちゃわちゃさせる事で
読み手も
ストレス無く読めると言う工夫があります。

らんまも
見ようによっては重いのか。苦笑


重くなりがちなテーマを
実は
ギャグにしてる作品と言うべきなのかな。

見方を変えたら
ラブコメ鋼錬だものね。




ここら辺の
オールランドキャラクターと
セミラウンドキャラクターの使い分けも
作家さん色が出ますよね


そこの使い方は
分析だけではダメで
実際
真似して見て

ああ
こういう使い方もあるんだって
身につけるのも
勉強ですね




そんな感じで
物語を捉えてます。






自分は
こんな感じで定義してます。