スカッとする系の物語が嫌いのは
ルサンチマン的
憂さ晴らし的物語観覚が
垣間見える事がある為



そこに
鬼太郎の言う


ねずみ男も
自分と同じだ
という民主主義の前提が
無いように感じられる為





だけど
スカッとするのは好きだし


強制しようのない絶対的な悪がいるのに関しては
理解出来る


だから
ジョジョや
鬼滅
ヒューマンバグ大学は
グロ表現が嫌だけど
絶対的に
納得出来る





小物の悪人を
悪様に笑う人間は
その瞬間
自分も
同じ
小物になってる事に
気付かない。



どうせなら
シリアルキラーや
独裁者
最悪な詐欺師を嘲笑えって言いたくなる。








魔が刺すという事は
どんな人にもあって

そこには

排除で無く

困った奴だなあという感覚が必要だと思う



世界が
生産主義に傾けば傾く程

自分達も
品定めの努力に追われる事になる事を
感じれない人間がいる



本来
作家は
ここに
疑問をエンタメというオブラートを通し
提言すべきでないのか?



暴力はダメだが
感じさせる事


心に細波を起こす自由まで
制限は
与えられてない



そして
それが
力になり
各分野で

暴力運動ではない形で
広まって行けば

人は
技術の進歩に見合う
精神的進歩も出来るのではないか?

楽観的な僕は
そう思ったりもする訳です。


罪を憎んで人を憎まずなんて
そんな綺麗ごとは言えないけど


自分を棚上げする為に
物語を消費するような人間に
僕は
なりたくない



そういうのが
社会的プロパガンダに繋がる物で
行動者責任に当たる物と感じる。




創作物にも
基本的に誠実さはある

問題は受け手で
時々変な奴も
居るって事で

これは
ここに至っては
過失や無過失で
考えるしかないよね



結局
何かに
誠実とは
そういう事だと思う。