「最後の号令を──。」

高校生活が幕を下ろした。ひっそりと、わたしにだけはその終わりを告げまいとするかの如く。昨日の雨もあがり、曇天にもいま薄日が差そうかという空模様の中、わたしの三年間はたしかに終わったのである。世間一般のそれとまではゆかずとも、幸せと形容するに足るものだったと思っていた。多くはないが幾人かの友達を作り、恋をして、結果実りはしなかったが、それでも幸福であった。無事に卒業をして、進路ももうじき定まるのだから、幸せというほかない。

    しかしながら、どうもそう清々しい気持ちのしないものである。元来こういった別れを暫く引きずる性質の認められる自分ではあったが、今度という今度は今までのそれとはちょっと違った気がした。まだ1ヶ月後にはそこにいるような気もするし、目の前で、あるいはすぐ横で談笑しているだれそれがもう今生会わぬやもしれぬとはどうも信じがたかった。

    したがって、爾来わたしは沈鬱な心持ちである。僅かに半日をすぎたばかりではあるが、手元に何かを持っておかねば、隙をついて襲ってくるのである。

    同じ学校という集団を脱すると、今までわたしたちを結びつけていた関係性が解けてしまったように思われた。その程度の関係性であったということなのかもしれないが、そう考えることは沈鬱な感情を増すばかりであった。それが悩みの種であったと言っても良い。わたしは「卒業式」という行事に、自分の存在の矮小さを、自分の非力さを見せつけられた──!

    わたしは高校に入って、結構に人と交流した気になっていた。少なくとも同級の人には以前より接してきたつもりであった。むろん社交性に欠けた、事務的交流でなかったとは言い切れないのだが、しかしながらある程度の交友関係を築いた気になっていた。

    だから、これが自分の甘いところだとはこれまた自認せざるを得ないのだが、どこか卒業式にも期待をしていた節があった。要するに、わたしにも寄せ書きを書く相手がいて、書いてくれる人もいて、写真も撮ろうとか、そんなことをちょっと期待していた。わたしは浅慮であった。わたしはまた、やはり臆病であった。機を逃したと、人混みを避けた。人混みに見知った顔を見いだせないこと、自分が輪に溶け込めないことから目を逸らしたいばかりに、わたしは人のほとんどいない教室にまだ留まっていた。それでも、どこかで自分のもとにやってくる人のことを期待した。誰かが、去年同級であった、あるいは今年同級で己の友人との交流も一段落した誰かがわたしのもとにやってきて、ひょっとすれば別れくらいは交わせるのではないかと。わたしは自分を買いかぶりすぎていた。わたしは有象無象のただひとりにすぎなかった──!わたしは、誰かにとっての何者かになった気でいた。なくてはならない何者かであるように錯覚していた。

    結局、なんとか数人に寄せ書きを書き、また数人に寄せ書きを書いてもらったのが関の山であった。書いている人たちの流れにのったもの、わたしの期待通り、決して肯定的意味合いを持たない「期待通り」だが、お願いをされたもの、数少なく自分がお願いをしたもの。そのうちのひとつは好きな人のものであったけれど、彼女のアルバムに寄せ書きはできなかった。自分のアルバムに書いてほしいとは頼めても、自分が書こうとは言えなかった。尤も、振られた相手に寄せ書きを依頼する自分の度胸というか、考えのなさには驚くばかりである。

    沈鬱さの原因はもうひとつ、ここにあった。一、二ヶ月前に振られたあと、わたしは勿論喪失感に襲われていたわけであるが、相手とLINEのやり取りは続いていた。わたしは彼女と話すのが好きであったし、話しているのが楽しいから、ずっと気兼ねなく話したいから、彼女が好きであった。だから、もしもそれが得られるならとここまで引っ張ってきてしまった。それが良くなかった。相手の優しさにつけ込んで、わたしはまだ気持ちを断ち切れないだけの怪物になってしまった。卒業式のあと、少し時間を貰って会ったことはさきに書いたが、そのときも、結局お別れらしいお別れは言えなかった。区切りがとうについているはずなのに、わたしには区切れの悪い関係であった。区切りをつけたい。だが、話したいと思っているのは自分の方だけであることは明らかであって、これ以上は常識の範疇を越えているように思えてならないのであって、ゆえにそんな気持ちを抱え込んだままであった。

    幸福そうな過去は、最後には、自分への嫌悪も混ざって、固い石のようになって心の中に沈んでしまった。時間が解決してくれると皆言うが、時間の解決を待てるほど理性的ならどれほど楽だったろうか!真っ当な助言を受け入れられれば、どれほどに生きやすかったろうか!

    自分だけが執着している。執着している自分もキライだ。格好悪いとか、そういう斜に構えた感情ではなくて、ただただ、得体のしれなさ、言葉を選ばずに言い表せば、自分のうちに潜む犯罪性を恐れている。一歩間違えればそうなるのではないかと思うときがある。そんなことをするほどの実行力も思い切りもないが、それはいつタガが外れるかわからない、消極的な理性である。もう既に大半は機能していないかもしれないのだ。自分が道を踏み外すことがないという自信がほしかった。それは無理な話だろうが。

    時間は、幸せな記憶だけを綺麗に残してくれるだろうか?陰の気を陽の気に転換してくれるだろうか?時間が解決できなかったとき、わたしはどうなるのだろうか?

    幸せな門出は、あまりにも大きな重りを心のなかに置いていってしまった。願わくば、時間がこれを溶かし、わたしの一部と為してほしい。




実体験にもとに書かれています。が、なるべく綺麗な言葉を用いております。そうでもしないと、書いている本人の消極的性格が前面に出てこれ以上に読むに耐えない文章となるためです。これを読んだうえでわたしをどう思うかは皆様にお任せします。