最近、というのも包み隠さず言うなら大学入試を受験してからなのであるが、少し時間的余裕、私の場合は時間的、精神的空白と表現したほうが適切かもしれないが、そういったものが生じたので、こうして少し文章を綴るようになった。それは、なんとなく思索をする時間ができたという、古代ギリシャ人的なものでもあるかもしれないが、さっぱり何故だかわからない。それについて突き詰めてもよいのだろうけれど、いやはや、自分のことは自分が一番わかるようで、一番わからないものである。きっと、冷たくなるその日まで自分のことは本当にはわかるまい。無論、他者のことを完璧にわかるか、といえばそれもまた土台無理な話であるが、それでも、なんとはなしに、自分のことはそれ以上にわからぬように思われるのである。だが、私はそれも悪くないと思う。自分をわかった気になっているというのも、自分を疑う力を失っただけなのではあるまいかとも思う。

さて、本筋に戻ろう。書き始めたはいいが、どうも自分の文章というのは後で読むと気恥ずかしい。というのも、後で読んでみるとどうも達観したふうを装って、その実空虚な理論ではないかと思うと同時に、そもそもこの文体がなんとも気取っていて、じぶんでないような感触さえ覚えるのである。

事実、僕は常日頃こんな喋り方もしなければ、友人とのメッセージのやりとりももっと気楽なものであるし、今までのTwitterの投稿などを見ても、こんな書き方はしていなかった。批判的に見れば、これはどう考えても気取っている。さも学者であるふうに振る舞おうとしているとしか思えない。否定はしない。さきに述べたとおり、これは僕自身そう思っていることであるし、少し、そうであることに縛られ、自分自身こうした文体でものごとを書くことに目的というか、楽しみを見出しているフシもある。

ただ、僕は別に反省をするためにこの文章を書き始めたのでも、これから改めるという決意の表明をしにきたのでもない。単に、自分の書く文が、どうしてこんなものになったのか、文章を書きながら考えようと思った次第である。

一に、恥ずかしながら、僕がカタチから入りたがること。これは言わずもがなである。別段、普段のような口語がキライとかではなく、ただ、普段とは違う文体を書いてみたいと思ったときに、最も触れることが容易であったし、ちょうど書きたいこととも一致したためである。書くことがゲームや写真やその他のことであれば、こんな書き方はしていないと信じている。

二に、前段と被るが、要するによく触れる文体だったわけである。人は周囲から言葉を吸収する。それが人間であろうと、書籍であれ、動画であろうとである。例えば、エセ関西弁なるものが存在するが、あれは自分の知る日本語とは少し違った日本語をどこかで見聞きした結果、全く関西圏とは縁もゆかりも無い人が喋るようになるわけである。関西弁は、現実において大阪、京都が社会の中心をなし、人口の多かったこともあるが、その結果としてドラマやアニメにおいても大体一人、二人ほどは関西弁話者が登場するがゆえに、触れる機会が多いと言えるだろう。たとえば、まもなく三期の始まる『ゆるキャン△』にも、やはり、関西弁を話すメインキャラ、犬山あおいが初回から登場する。当然、彼女の妹犬山あかりを含め家族は基本的に関西弁なのだが、出身地は明かされぬまま、何故関西弁なのかはわからずじまいである。ところで、あかりちゃん映画になったらかわりすぎでは。というわけでゆるキャン△三期は四月であるので、是非とも視聴してもらいたい。いや、この機会に一期から見てください。

これを見れば、エセ関西弁的に僕がこうした文章を書いているのかもしれないと納得できる筈である。というのも、直近半年の間、共通テストの小説を除いて、ほとんど現代文の試験では論説文を読んできたからである。それも所詮A42,3ページにすぎない、書籍の抜粋なのだからたかが知れているのだが、しかしながら、この間に読んだ日本語の過半数はそういった文だったと思う。

三に、英語の存在である。意外なことだが、これもこの読みにくい文章のつくりに寄与しているように思われる。英文には、偶に"S V, I think, O"などと、文を挿入するものが比較的頻繁に登場する。母国語話者でない我々としては、つい紛らわしい文構造だと煩わしさを感じるのであるが、僕はこの語感に少し好感を抱いていた。勿論、試験で日本語に訳すときはそのままに「私は〜と考える」とか「(私が)考えるに」とかなるべくわかりやすいようにする心がけはしていたが、それなりにそういった文章に触れるうちに面白いと思ったというわけである。英語は、なるべく文中の単語をひたすらに繰り返すのを嫌う傾向があるという。要するに、文のマンネリ化を嫌っている。どうも僕の日本語もそうであるらしく、どうしても、「である。」などと文末が同じ文章が二つ三つと連なると気になってくるときがあるのだ。文末に留まらず、文頭も例外ではない。これは義務教育の作文教育の名残か、などと考えながらも、しかしながらこの気質はよいものかどうかはさておいてもどうしようもない。その結果が、種々の接続を用いながら主語をとっかえひっかえするこのやたら長い一文なのである。とはいえ、単純な僕の文章構成力、もっと言えばコミュニケーション能力の低さもあるので、一意にこの読みにくさを、過去に読んだ他人の文に仮託するのもいかがなものかとは確かに思うところもないではない。

私見としてはこんなところであろうか。要するに、他者の文体を借りて、今、僕は文を書いている。いつか、文を、言語を自分のものとすることはかなうだろうか。数少ない熱心な皆様方には、今しばらくこの書き方にお付き合いいただきたいと思う。