小学生のころ、自宅の畑で採れた季節の野菜をお裾分けするのを手伝っていた。
『〇〇さんとこに、お使いに行ってきてくれっか?』
近所に住む祖母の友人の婆さんの家まで、チャリンコでたびたび届けていた。
お駄賃にとお菓子をもらったりして、誉められたり。
しかし、自我の芽生えとともに、お使いがこっぱずかしくなり嫌々引き受けるようになったのだ。当時は、自転車のカゴの中でガタゴトと揺れるトウモロコシを恨めしく思ったものだ。
『え~、やだよ』
『頼むよ、行ってきておくれ』 (じっとり睨みつける祖母)
『しょーがねーなー、わかったよ』
なぜそんなに苦痛だったのか?
まず、自分のやっていることを中断させられるのがうっとおしい。
でも、本当はその友人の婆さんちが、通っていた小学校の目の前だったからだと思う。
万が一、同級生に見られたら恥ずかしい。こんな姿は見られたくない!
ま、誰も見ちゃいないのに。
お手伝いえらいねと、婆さんにやたらと誉められるのも、やぼったく感じていたのだろう。
いい事しかしてないのにね。つまらんことで意固地になっていたもんだと思い返す。
ひねくれたガキだったなあ。
自我の包囲網は、自分の世界を狭くする。
祖母もその友人の婆さんも、この世にはもういない。
八百屋ではたらく食育ロックボーカリスト
ひじき石塚