【番外】 天香山  その2  アメノカグヤマはアメノカゴヤマ      土方水月  

 

 

 アメノカグヤマ  その2  アメノカグヤマはアメノカゴヤマ       ひじかたすいげつ

 

 アメノカグヤマとは漢字で書けば天香具山か天香久山となるが、もとはアメノカゴヤマであり、天香山であり天歌語山であった。

 

 香具山は大和三山の一つである。しかしそれは、出雲の富氏がやって来て登美氏となり、出雲のアメノホアカリの孫であるアメノムラクモがやって来てからのことである。アメノムラクモは天村雲と書けば、天火明の天孫であった。出雲の天火明は九州の天孫ニギハヤヒ(ニニギ)であったとされる。つまり、天村雲は天孫の天孫ということに。そして、天皇の代数でいえば初代神武天皇である。

 

 古事記はこのように描いた。なぜか?

 

 最終編集責任者であった稗田阿礼こと藤原不比等(藤原史ふじわらのふひと)は中臣の出自である。中臣は総国仲国の富氏であった。つまりその中臣鎌足ルーツは出雲であった。国譲りによって東国に追われた出雲族であった。出雲のアメノコヤネの子孫であった。

 

 中臣氏は乙巳の変で蘇我を倒し、出雲を復活させたのであった。そして本来は一地方の王であったアメノムラクモを初代大王とした。それは出雲の富氏を母方に持つ畿内の最初の王であったからである。

 

 後に九州のウマシマヂが東征し、さらのその後のミマキイリヒコイニエ(崇神)・イクメイリヒコイサチ(垂仁)の東征の後に、武内宿禰と神功皇后の東征があったといわれる。三度の東征により物部の世になり、蘇我の世になり、何度も国譲りをした出雲族は、いつか復活したいと願っていた。

 

 

 白村江の敗戦で、九州は第二次世界大戦後のGHQの占領下のようになった。九州は唐に支配され、倭であった天智朝もほろび、新たな日本である天武朝が対唐友好国として成立した。実際に日本の国号となったのは701年文武天皇の御代ではあるが、それを行ったのは天武天皇であり、持統天皇であった。武則天という唐の女帝と同様の女帝をもった日本は、遣唐使を送り、様々なシステムを唐に学んだ。のちに藤原京と呼ばれる新益宮も唐の長安を真似た。

 

 

 古事記日本書紀が編纂されたのはその頃であった。

 

 藤原史はその新益宮のある登美ゆかりの地を大王の居場所にしたかったのである。九州ではなくここを発祥としたかったのである。そのため過去の東征の逸話は入れるにしても初代大王はこの地の出自の王としたかったのである。出雲の出身の登美氏と物部氏との合体をフツノミタマノツルギとし、それは後にアメノムラクモノツルギとなった。物部氏は鏡を神器として重んじた。そして、後にクサナギノツルギと呼ばれるアメノムラクモノツルギと八咫鏡が天皇であることの証明となった。

 

 

 アメノカグヤマはアメノカゴヤマであった。アメノカゴヤマはアメノムラクモの父であった。アメノムラクモは父であるアメノカゴヤマをアメノカグヤマに祀ったのであった。

 

 アメノカグヤマは天香山であった。“具”の文字がなかったのである。それは今は丹後の籠神社(このじんじゃ)に祀られる海歌語山であった。籠神社は“かごじんじゃ”であり、“歌語神社”であった。

 

 アメノムラクモは初代大王神武天皇となったが、実際は畿内の一地方の王である海村雲であった。そしてその父が海歌語山であり、そのさらに父が海火明であった。彼の名は大年(おおどし)という。天照国照彦火明櫛魂饒速日であった。そして、彼こそが畿内を制したアマテラスであった。

 

 

 アマテラスはヤマトの王の称号であった。

 

 そして、アメノカグヤマはアメノカゴヤマ、つまり天火具山であり、火具土神カグツチであり、火雷神であった。

 

 

 つづく