『日本国記』 「出雲」の出雲族と「ヤマト」の出雲族の戦い    限りなく真実に近いアナザーストーリー  【78A】 「物部東征」と「倭国大乱」    ひじかたすいげつ 
 

 

 つづく

 

  宇佐の「ヒメ大神」や但馬の「息長帯姫オキナガタラシヒメ」の話の前に、出雲と物部の戦いがあったことを述べなければならない。魏志にいう「倭国大乱」である。

 

 一般に「倭国大乱」は146年から189年の2世紀後半といわれるが、天皇の代でいえば孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇に時期である。戦乱の時代の天皇には"孝”の文字を付けたのは淡海三船で、その天皇の特徴をうまくとらえた文字を使っているといわれる。第五代から第八代天皇までの時代であるから、その前の第四代懿徳天皇は146年前後に崩御し、第九代開化天皇は189年頃即位したと考えられる。

 

 つまり、男王が立って70-80年として、倭国大乱の始まりの146年から逆算すると、146引く70-80で、紀元後76-66年頃が初代神武天皇の即位した時期となる。また、第九代開化天皇は戦乱が終わった後の天皇であることが分かっているので、女王を立てたので戦乱が終わったとすれば、開化天皇が女性であったか開化天皇と女王は並立していたことになる。統治王と祭祀王であった。この時代も今も祭祀王が「王」である。

 

 

 一般に、神武天皇即位はB.C.660年といわれているが、それはあり得ないことは周知の事実であり、実際は紀元後57年ではないかといわれる。陰謀とは陰で行うはかりごとをいう。一方、逆は陽謀であり、表立って行うはかりごとであるから王のはかりごとを言う。今年のNHK大河ドラマにもあったが、将軍の即位は陰謀によって行われることが多かった。天皇の即位も同じであった。

 

 孝元天皇の即位は、物部の侵略により孝霊天皇が播磨吉備へのがれた結果であり、開化天皇の即位も同様のことが起こった結果であった。孝昭天皇の時代に起こった"倭国大乱”とは、物部の東征のために起こった戦いであった。この"物部”とは一般にはウマシマジと呼ばれるニギハヤヒの子孫である九州勢力のことであった。ウマシマジらは九州から四国南岸を通り阿波、阿波道を通り紀伊に渡った。土佐には物部川や鏡川や佐賀や鏡村があった。〝鏡”は物部の象徴であった。三種の神器の一つは〝八咫鏡”である。

 

 

 この「ウマシマジ物部」の東征は紀伊・熊野からは北上し、吉野からヤマト橿原に侵入したといわれる。大田タネヒコの助けによって。登美山も制圧され、「ヤマト」の出雲族による大王家は「ウマシマジ物部」を恐れ移動した。大彦は北東に、孝霊天皇は北西に逃れた。

 

 それにより、孝霊天皇は播磨・吉備に移動し、播磨のヒボコを駆逐し、さらには「出雲」の出雲族が支配する伯耆や備後も攻めた。これは「ヤマト」の出雲族による「出雲」の出雲族への攻撃であった。「力を持った親戚」には注意しろといわれることとなった。

 

 

 つづく

 

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