『日本国記』  「建角身・味鋤高彦」と「オオタタネコ」    限りなく真実に近いアナザーストーリー  【74A】    ひじかたすいげつ 
 

 

 つづき

 

 「建角身・味鋤高彦」は〝神武東征”を助けた〝八咫烏”であったとよく言われる。しかし出雲の口伝では、第一次〝神武東征”はニギハヤヒの子孫である物部ウマシマジによってであり、熊野からヤマトまで戦いらしいものはなかったといわれる。その道案内をしたのは今の堺市の陶荒田神社を創建した「大田タネヒコ」であるという。そしてウマシマジらは磐余の地に住み、登美家の霊時であったトミヤマも占領したという。それにより、出雲のヤマトは物部のヤマトとなった。つまり、ウマシマジによる〝神武東征”を助けた〝八咫烏”は「大田タネヒコ」であったという。

 

 孝元天皇の子であった大彦とは腹違いの兄弟であった孝霊天皇は、大彦が物部の進行を嫌いヤマトを去った後、大王に就任していた。しかし、物部によるヤマトの占領により、西への移動を開始し、播磨や吉備に向かったのであった。

 

 登美家の者たちも大彦や孝霊天皇と同様にヤマトを去った。一部は生駒山地に残ったが、当主であった「建角身・味鋤高彦」は木津川周辺の南山城に移動したという。そこには賀茂の地名があり「建角身・味鋤高彦」を祀る岡田鴨神社がある。出雲の伝承では「椿井大塚山古墳」に「建角身・味鋤高彦」は葬られているといわれる。

 

 

 前にも述べたように、「大年」は「ホアカリ」であり「大年」の妻が「高照姫」であった。そして、「高照姫」の妹であった「下照姫」は「建葉槌・天稚彦」に嫁いだ。これにより、「大国主ヤチホコ」の娘を介して、「大年」と「建葉槌・天稚彦」は義理の兄弟となった。そして、その娘たちの兄妹であった「味鋤高彦」も「大年」と義理の兄弟となった。

 

 「天稚彦」が亡くなったとき、その葬儀に現われた「味鋤高彦」は「天稚彦」に似ていたため、「天稚彦」が生き返ったと間違えられた。顔が似ていたのは〝親が同じ”か〝親子であったか”であるといわれる。

 

 もし親が同じであるのなら、「味鋤高彦」の親は「大国主ヤチホコ」であるから「天稚彦」の父が「大国主ヤチホコ」ということに。そうであるなら、下照姫の親も「大国主ヤチホコ」であるから、母親が違ってはいるが結婚は考えにくい。

 

 逆に、「天稚彦」は高天原から出雲に送られたのにもかかわらず、「下照姫」と結婚し、出雲に染まってしまったために殺されたのであるから、「天稚彦」の親は「大国主ヤチホコ」のはずはなく、「大年ホアカリ」かあるいは他の天孫族が親であった可能性が高い。もしそうなら、「味鋤高彦」の親は「大国主ヤチホコ」ではあったが、「天稚彦」と双子であって、片方が他家に出されたと考えた方が分かりやすい。

 

 「味鋤高彦」は「大国主ヤチホコ」の子ではあったが、本当は「大年ホアカリ」の子であって、「大国主ヤチホコ」の子として養子に出されたと考えるとつじつまが合う。たしかに「味鋤高彦」は出雲の王である大名持にも少名彦にもなってはいない。

 

 「味鋤高彦」は臣下のように「大国主ヤチホコ」にも「大年ホアカリ」にも仕えた。彼は、いわゆる〝神武東征”を援けた「タケツノミ」でもあった。そして、倭のいう「大国主ナムジ」は出雲族にとらえられ、行方不明になっていた時期があった。その時の子が「建葉槌」であったとすれば、「大国主ナムジ」が「大年オオドシ」であり、「建葉槌」が「天稚彦」であるなら、「天稚彦」と「味鋤高彦」は双子であったのかもしれない。

 

 もしそうだとすると、「建角身・味鋤高彦」と「建葉槌・天稚彦」は「大国主ヤチホコ」の子であはあるが、実はそうではなく、「大国主ナムジ」である「大年ホアカリ」の実の子であったのか?もしそうなら、「大年ホアカリ」と「建角身・味鋤高彦」と「建葉槌・天稚彦」の三人の顔が似ていておかしくはない。

 

 

 このような話はどこかで聞いたことのある。「武内宿禰」は孝元天皇の子であった「彦フツオシノマコト命」の子であって、「ヤヌシオシノタケオゴコロ命」の子でもある。実際には景行天皇の子であって、成務天皇と双子であったため「ヤヌシタケオゴコロ命」の子となったともいわれる。双子の場合には他家に出されることがあるし、母が身分が低かったり、敵対する家の出自の場合などには、他家に出されたり、正式な子とならなかったりすることはよくあることであった。

 

 

 つづく

 

 

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