『日本国記』  「出雲」と「吉備」と「ヒボコ」  その3  息長帯姫   限りなく真実に近いアナザーストーリー  【77A】    ひじかたすいげつ 
 

 

 つづく

 

 「息長帯姫オキナガタラシヒメ」の母親は葛城の「高額媛タカヌカヒメ」であった。彼女はヒボコ一族の末裔であったため、その子である「息長帯姫」にとっては辰韓の後の新羅は自分の領土を奪った敵国であった。新羅は本来〝シンラ”であった。しかし、あえて「シラギ」と呼んだ。今でも日本では新羅を「シンラ」とは読まない。「シラギ」とは「新羅の奴ら」という意味であった。〝ジャップ”のような蔑視の呼び方であった。

 

 

 「息長帯姫」の父「息長宿禰王」は、その父が開化天皇の子の「彦坐王」の子の「山城大筒木真若王」であった。「息長帯姫」はそのような家に生まれたため皇太子に嫁ぐことを考えたらしい。「息長帯姫」がというよりも、父である「息長宿禰王」がそう考えたのではないかと思われる。

 

 景行天皇の子の「成務天皇ワカタラシ」に新羅出兵を求めたが嫌がったという。成務天皇は武内宿禰と双子であるともいわれ、成務天皇はときどき武内宿禰であり、武内宿禰はときどき成務天皇であったことを考えれば、成務天皇には同意してもらえなかったが、武内宿禰には同意してもらえたため武内宿禰の子を宿したと考えれば、それなりの理由があったことになる。

 

 次に豊前出身の「中津彦」にも依頼したが断られたという。この「中津彦」が後に仲哀天皇として代数に数えられたが、神功皇后の正式な夫であったためといわれる。「中津彦」は断った翌日に亡くなったと記紀には書かれている。

 

 そして、その後「武内宿禰の子」である「襲津彦」に相談し、新羅征討の同意を得たというが、それは「成務天皇」が亡くなり、「中津彦」も亡くなり、「武内宿禰」が実権を握ったためであったと考えられた。それにその子の「襲津彦」も同意したということであろう。

 

  

 但馬にいたヒボコ族は播磨にも進出した。それにより同族であった出雲王家とヤマト磯城王家は分断され疎遠になっていった。その頃、九州のニギハヤヒの子孫の物部が四国南岸を通り紀伊に東征した。ウマシマジと後に呼ばれるこの一族はヤマト磯城王家を南の熊野から攻めた。

 

 この熊野の物部勢力からヤマト磯城王家を南北から挟み撃ちにしようとの提案がヒボコ族にあったという。ところが、熊野の物部は南から攻撃しなかったという。そのためヒボコはヤマト磯城王家に攻撃され滅んでいったという。しかしこれはヒボコ族の言い分で、実際には南から物部勢力に攻められたヤマト磯城王家は西に逃れた。その勢力が後に吉備王国をつくる孝霊天皇の勢力であった。彼らはやむなく西に移動した。それにより播磨に進出していたヒボコ族は縮小を余儀なくなれた。それのみならず、孝霊天皇の勢力は出雲の支配地であった今の鳥取や岡山も攻めた。ヤマト磯城王家と同族であった出雲族は驚いたという。

 

 ヤマト磯城王家であった孝霊天皇の子の〝桃太郎”こと「吉備津彦(イサセリヒコ)」たちに敗れた〝温羅”こと「ヒボコ族」は西に逃れ今の広島の世羅地区に移動した。そして西へ西へと九州まで移動した。ヒボコ勢力の一部は但馬摂津一帯に残り、多遅麻毛理(タジマモリ)から息長氏に受け継がれたものと思われる。

 

 ヤマトに残った出雲勢力も多く、孝元天皇が孝霊天皇の次の大王となった。次の開化天皇までは磯城王家の家系ではあったが、物部の力に頼る連合王家となった。

 

 

 「息長帯姫」は「神功皇后」とも呼ばれ、仲哀天皇の后であり、応神天皇の母であったことになっている。それは「武内宿禰」が力を持ち、その後の蘇我氏を作ったため、そのように伝承されたものと思われる。

 

 ホアカリからの流れである「ヤマト磯城王家」は饒速日からの流れである物部と今の奈良で合流し、「物部王朝」となった。そこからはじかれた孝霊天皇によりヒボコは滅ぼされ、播磨吉備は孝霊天皇の子である「吉備津彦(大吉備津彦)」の時代に吉備王国となる。しかし、ヒボコの生き残りの末裔であった神功皇后はしたたかに王位に返り咲くのであった。

 

 孝霊天皇は初めは今の鳥取の溝口の「楽楽福神社」か「高杉神社」に祀られたといわれるが、吉備津彦はその遺体を「楯築古墳」に埋葬したともいわれる。

 

 

 つづく

 

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