『日本国記』  「出雲」と「吉備」と「ヒボコ」  その2    限りなく真実に近いアナザーストーリー  【77A】    ひじかたすいげつ 
 

 

 つづく

 

 ヒボコ一族の「葛城高額姫タカヌカヒメ」と開化天皇の曾孫あるいは玄孫といわれる「息長宿禰王」の間に「息長帯姫オキナガタラシヒメ」は生まれた。彼女は仲哀天皇の后となったことになっている。崇神・垂仁天皇は九州から東征し、ヤマトを支配したが、絶対的は権力は持っていなかった。部下であったトヨキイリヒコや孝元・開化天皇系の勢力もいた。

 

 「オキナガタラシヒメ」の父「息長宿禰王」は、その父が開化天皇の子の「彦坐王」の子の「山城大筒木真若王」であった。そして、母はヒボコの五世孫の「葛城タカヌカヒメ」であった。ヒボコが辰韓の皇子であったため、辰韓の臣下が建てた新羅から年貢や領地を受け継ぐ権利があると考えたらしい。

 

 景行天皇の子の「成務天皇ワカタラシ」は新羅出兵を求められたが嫌がったという。成務天皇は武内宿禰と双子であるともいわれるが、その成務天皇には同意してもらえなかった。次に豊前出身の「中津彦」にも依頼したが断られたという。この「中津彦」が仲哀天皇であったといわれる。しかしその後、武内宿禰の子である襲津彦に相談し、新羅征討の同意を得たという。

 

 

 

最盛期には但馬から摂津に勢力を持ったが、孝霊天皇のとき桃太郎である五十狭芹彦たちに敗れ、追われて散りじりになったようである。今も出石にその後裔がいるが、鬼(温羅)として征伐されたため、その墓も隠して祀られたという。丹後の円山川沿線がその本拠であったといわれ、出石神社に祀られる。

またその伝承地は但馬・摂津のみならず若狭、志賀、播磨、淡路、吉備、豊前、筑前に渡る。

 

 追われて西に流れたように見える。播磨国に今もある「そうめん」で有名な揖保川(いぼがわ)は、「居ヒホコ川」からなまったものともいわれる。吉備から西へ西へと追われた子孫は悲しい歴史を持っているといわれる。

 

 その系図に多遅麻毛理(田道間守)や多遅摩比多訶やその子息長宿禰王の妻やその子息長帯比賣オキナガタラシヒメが出てくる。オキナガタラシヒメの母がヒボコの末裔であった。オキナガタラシヒメは神功皇后とも呼ばれ、仲哀天皇の后であり、応神天皇の母であったことになっている。

  

 但馬も吉備ももとは出雲の支配地であったが、ヒボコ一族が占領した時代があった。そこを“征伐”するために、いわゆる「桃太郎」が向かった。それに「サル」・「トリ」・「イヌ」が従い、「ヒボコ」である温羅を征伐したという。

 

 その家来のうちの「トリ」つまり「鳥取一族」は、「桃太郎」つまり「五十狭芹彦(吉備津彦)」と共に出雲を攻めた側であった。出雲はそれを忘れてはいない。彼らから見れば「トリ」は仇敵であった。

 

  出雲の末裔でもあるヤマトの孝霊天皇が、敵である「ウラ」だけではなく、出雲の領地までも攻めたことに出雲側は驚いたという。温羅は新羅系渡来人である「ヒボコ」の一族であり、吉備から丹波にかけて辰韓から移住してきていた。本来は、「ヒボコ」を排除する目的で、孝霊天皇とその皇子たちが「サル」・「トリ」・「イヌ」である「猿女氏」・「鳥取氏」・「犬養氏」を従え吉備・但馬に攻め込んだ。ところが、その温羅の領地を超えて出雲の領地まで奪った。そのため鳥取県と島根県は仲が悪いといわれる。

 

 孝霊天皇も垂仁天皇に追われたから吉備に移動したのであり、仕方のないことでもあったが、結果的には吉備は一大王国となり、独立国のようになったといわれる。

 

 それに対して、ヒボコ一族は転々と西へ流れていったのであった。

 

 つづく

 

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