『日本国記』  「出雲」と「吉備」と「ヒボコ」       限りなく真実に近いアナザーストーリー  【75A】    ひじかたすいげつ 
 

 

 

 つづく

 

 出石神社の社家である神床家がヒボコの末裔であるといわれる。SNSの友にヒボコの末裔がいるが、名字は“神床”ではない。その方の名字はとても少なく、そのため同じ名字の人がどこに何人いるかを調べるとすぐにわかった。日本国内におけるその名字の人の分布と出石神社の分布は全く相関する。やはり出石神社に所縁のある方らしい。出雲王家である向家の伝承と神床家の伝承では、「ヒボコ」は辰韓王の長男であったといわれる。跡継ぎ争いを避けるため家来をつけて倭に流されたという。

 

 初め出雲やってきたヒボコは出雲王家によって上陸を拒まれた。そのため東に移動し但馬にやってきたが、そこでも上陸を拒まれたため、今の豊岡市円山川中流の沼地で水上生活をしていたという。河口に津居山があって流れをせき止めていたが、ヒボコが山を削り流れをよくしたため、沼地は平野となりそこに住んだといわれる。彼はそこで亡くなり出石神社ができたという。

 

 その後のヒボコ一族は、出雲と但馬とヤマト・吉備に挟まれ、苦難の道を余儀なくされたという。ここは田道間守の本拠地である。紀元前には出雲の支配地であり、出雲から分かれた海部氏がヤマトに移り大王となった。初代神武天皇である。それから後の第五代孝昭天皇から第七代孝霊天皇と第八代孝元天皇の時代まで戦乱が続いた。倭国大乱である。

 

 ヤマトに移った神武天皇は実は出雲の流れである。後に海部氏となった。今は丹後の籠神社社家となっている。そして二世紀から三世紀にかけて九州の物部勢が東征した。これは大陸の戦乱とも関係があり、大陸から逃れてl来た人々が九州に大勢渡来した。そのためもあり、東へ東へ移ったのは理解しやすい。“弥生人の東征”でもあった。

 

 前に述べたように、物部の東征は二回あった。一度目はウマシマジによって、二回目は崇神東征であった。ウマシマジはニギハヤヒ(ニニギ)の子孫であった。崇神天皇もそうであった。崇神天皇はミマキイリヒコイニエといい、今の宮崎県の都万から西都原を支配していた。そこから東征したため、宮崎は“宮先”となった。彼は東征の前にウマシマジの失敗を参考にし、九州の祭神であった今の大分県宇佐の豊の月神を利用しようと考えた。ウマシマジは出雲とヤマトの太陽神に負けたからであった。当時のヤマトは出雲族のヤマトであった。

 

 イニエは豊の姫と婚姻し、トヨキイリヒメとトヨキイリヒコをもうけた。前に生まれていたイクメイリヒコイサチと豊の姫である「ヒメ大神」とその子供たちが東征したのであり、イニエは都万でなくなったといわれる。つまり、「瀬戸内海を東征した“神武天皇”」は神武天皇ではなく、崇神・垂仁天皇と「ヒメ大神」である“ヒミコ”であり、トヨキイリヒメが台与であった。ヤマトの出雲族のひとり孝霊天皇は吉備に逃れた。そのことによりヒボコとの戦いが始まる。

 

 その物語が神武東征の物語であった。それにさらにウマシマジの東征のときのイツセの紀伊への上陸作戦を加えて書かれたのが記紀の神武東征であった。さらにその後の神功皇后の東征があった後は崇神垂仁一族も物部として東国に追われた。残ったのは新たなヤマト族である大倭オオワであった。そして、武内宿禰と神功皇后との間に生まれた応神天皇の時代が始まる。

 

つづく

 

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