『日本国記』 ヤマトトトヒモモソヒメから吉備津彦へ そして崇神垂仁朝に    限りなく真実に近いアナザーストーリー  【40A】    ひじかたすいげつ 
 

 

 つづき

 

 ヤマトトトヒモモソヒメ古墳は一般には箸墓古墳と呼ばれる。この「箸墓」という名称は、後に大物主の話の中で出てくる話からつけられた名称のようである。崇神・垂仁朝に、大物主がモモソヒメに神がかり、また、倭迹速神浅茅原目妙姫と大水口宿祢と伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神をオオタタネコと市磯長尾市に祀るように告げたといわれる。

 

 それは稗田阿礼である史がつくった話である。そもそもヤマトトトヒモモソヒメはヤマト登美モモソヒメであった。古墳は「箸中」にあり、登美の霊畤やトミノナガスネヒコを祀る登美神社にも近い。

 

 「倭登美母母曾毘賣」とわざわざ書かなくてもここは登美であった。墓誌には「倭母母曾毘賣」と書かれた。では彼女の父も登美なのか?

 

 そうであった。

 

 また、孝霊天皇の皇子五十狭芹彦は後に(大)吉備津彦と呼ばれるが、温羅と後に呼ばれたヒボコ勢が支配していた吉備を、サル鳥犬と共に攻め支配した。サル鳥犬を直接従えたのは孝霊天皇ではなく、五十狭芹彦である(大)吉備津彦であった。その後は吉備にとどまらず、出雲勢の支配していた伯耆・因幡にも進出し、元は同族の出雲族であったが戦うことになった。

 

 結局、出雲勢は吉備津彦勢に敗れ吉備王国のようになった。その後大和の大王家は分裂し、クニクル孝元天皇が大王となり、フトニ孝霊天皇は吉備に追われた。彼は吉備津彦と共に吉備王国をつくった。その功績から鳥である鳥取一族は因幡伯耆である鳥取県を、犬である犬養一族には吉備である岡山県の統治権を与えた。(大)吉備津彦は吉備津神社に祀られる。(若)吉備津彦は吉備津彦神社に祀られる。

 

 出雲族であった大和は分裂し、孝元天皇もその地位は盤石ではなかった。そこで、九州から紀伊にやって来た物部である熊野勢と手を結んだ。物部はニギハヤヒの子孫であった。ここにホアカリの子孫とニギハヤヒの子孫が一体となった。フツノミタマノツルギを屋根に穴をあけられ下ろされたタカクラジの仲介によって。この話は第一次物部東征のときの金鶏トビの話と、八咫烏の話と、タカクラジの話がリンクする。

 

 これまで力を持っていた出雲にはもうその面影はなく、また大和と吉備はそれぞれが分裂した状態となった。そこで後に崇神天皇と呼ばれるイニエは東征を始めた。豊宇佐の力を借りて。

 

そうして、その皇子である後の垂仁天皇イサチは崇神天皇の后豊玉姫と共に大和に入った。そして、孝元天皇と開化天皇から国が譲られた。二度目の国譲りであった。ここに崇神・垂仁朝ができた。最初は出雲とヤマトではなく、出雲とホアカリとの間であった国譲りの兆候は、もとは出雲族であった孝霊天皇吉備と出雲の戦いと国譲りとなり、さらにはもとはニギハヤヒ物部であった崇神・垂仁天皇とニギハヤヒ物部熊野勢と大和の合体した孝元・開化天皇とのあいだのくにゆずりとなった。

 

 

 このころにヤマトトトヒモモソヒメはいた。

 

 この二度目の国譲りこそが出雲登美大和オオワと倭ヤマトとの国譲りであった。ヤマトは倭であった。大和はオオワであった。しかしその後は大和はヤマトに。

 

 そして、出雲丹波ホアカリはニギハヤヒになり、ニニギの兄となった。物部ニギハヤヒは九州にいたはずが大和オオワに。ホアカリがニギハヤヒにされ、ニギハヤヒが弟ニニギにされた。ほんとうは、ニニギがニギハヤヒであり、ニギハヤヒはホアカリであった。

 

 大和はヤマトになった。倭ヤマトは大和ヤマトに。

 

 それは崇神・垂仁天皇への国譲りの後からであった。

 

 崇神天皇陵も垂仁天皇も大和にある。

 

 崇神天皇は九州で亡くなり、豊玉姫は厳島で亡くなったといわれる。厳島は斎島いつきしまという意味であった。しかし、垂仁天皇は大和に御陵を造った。天皇にしたからであった。大和で崩御した形をつくった。

 

 そうして、崇神天皇陵は大和に。

 

  つづく

 

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