『邪馬台国はどこか』ではなかった 4   ひじかたすいげつの考察        ひじかたすいげつ 

 

 

 

 

 

 

 卑弥呼の古墳は厳島神社にはない。どこにあるのか?

 

 確かに、厳島神社の主祭神は豊玉姫であり、宗像三女神のひとりである市杵島姫命ではない。しかし、豊玉姫はヒミコではあったが、「魏書」にいう卑弥呼ではなかった。「魏書」にいう女王ではなかった。しかし、女王ではなかったが、皇太后であった。持統天皇のように。

 

 斉木雲州は、イニエの都は「都万」にあり、卑弥呼は豊の「宇佐」にいたが、魏の使者には「都万」を都のように見せ、宇佐を秘密にした。また、邪馬台国は「大和(オオワ)」にあるように見せかけていたという。魏に本当の位置を知られたくはなかった。

 

 豊玉姫がもし「臺与」なら、その母が卑弥呼になるのか?

 

 いやどうも違う。「臺与」は若かったはず。豊玉姫は当時そう若くはなかった。本当の「臺与」は「トヨキイリヒメ」である。「豊鋤入姫」とも呼ばれるイニエ(崇神天皇)と豊玉姫(卑弥呼)の子である「トヨキイリヒメ」が「トヨ」であった。そして「伊予(壹与)」でもあった。「愛媛(エヒメ)」であり、卑弥呼の娘であった。

 

 「魏書」にいうように、男王を立てたがうまくいかなかったのは、祭祀が重要であり、イツセらの第一次東征の失敗を指しているのかもしれない。イニエ(崇神天皇)やイサチ(垂仁天皇)だけでは大和(オオワ)を制することはできなかった。祭祀を行う豊玉姫やトヨキイリヒメが必要であった。彼女らを巍の使者には女王と思わせたのであった。

 

 

 九州に球磨川や大淀川がある。四国の土佐にも久万川や仁淀川がある。物部川や鏡川もある。そして、大和のある近畿にも球磨川や淀川がある。そのほかにもたくさんの同名の地名がある。あきらかに、九州から東に移動している。そういう意味では、「邪馬台国は東遷した」ともいえるが、正しくは、「邪馬臺(ヤマト)」が東遷したのであった。

 

 果たして、九州の「倭(ヤマト)」は畿内の「大和(オオワ)」に東遷したのであった。そうして、「大和(オオワ)」は「大和(ヤマト)」に。「飛鳥」が「アスカ」になったのと同じように。

 

 

 「邪馬台」の「台」の元の文字は「臺」ではあるが、万葉仮名では「等」とも書かれた。「邪馬等(ヤマト)」であった。しかし、それがわからないように「古事記」は「魏書」と違うことを書いた。本当のことが分かっては困る人たちがいた。

 

 「邪馬臺」を「ヤマト」と読ませないのにはそういう理由があった。

 

 「ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)」も、神武天皇と同じ「ハツクニシラススメラミコト」となった。淡海三船もそれをよく知っていたのであった。「神」と名の付く天皇となった。そして土方の先祖である「応神」も、、、。

 

 

つづく

 

 

 

 

 

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