『日本国記』 限りなく真実に近いアナザーストーリー 土佐国は「タケヨリワケ」。 「タケヨリワケ」とはだれか? 8C  ひじかたすいげつ
 

 

 つづき

 

  高知県のもとの名前は土佐であるが、もっと以前の名は「タケヨリワケ」である。古事記の中に書かれている四国は“伊予の二名の島”であり、面が4つあり、ひとつが「エヒメ(愛媛)」、もうひとつが「イヒヨリヒコ(讃岐)」、もうひとつが「オオゲツヒメ(阿波)」、そしてさいごに「タケヨリワケ(土佐)」である。

 

 たとえば、九州の場合、まだ9の州はなく、4つであった。九州は“筑紫島”と呼ばれていた。そして、やはり面は4つ。そのひとつが「シラヒワケ(筑紫)」、もうひとつが「トヨヒワケ(豊)」、そして「タケヒムカヒヨトシヒネワケ(熊襲)」と「タケヒワケ(肥)」であった。それが後に、筑前・筑後・豊後・豊前・日向・薩摩・大隅・肥前・肥後の九州となる。

 

 しかし、九州の場合、少しおかしい。「豊」に入っているはずの日向が別になっており、「熊襲」に入っているはずの熊本が肥後として「肥」に入っている。そして、筑紫に入っていてもおかしくない「佐賀」が「肥」に入っている。

 

 「日向」は別格としても、「熊襲」であるはずの「熊」が「肥」にはいるという。そこに謎がある。

 「日向」は「豊」には入るが、「肥向(ひむか)」から来た名のはず、そして、「肥前」は「肥」の前であり、「肥」ではない。つまり、宮崎はともかく、「佐賀」と「長崎」は「肥」ではなかった。「肥」の手前であった。ほんとうは「筑紫」であったが、「肥」の「前」に。そして、「熊」は「熊襲」であったはず。

 

 「あんたがたどこさ」「肥後さ」「肥後どこさ」「熊本さ」

 

 「肥」は「火」。阿蘇山のことであった。しかしその名も新しい。古い名は「朝熊山(あさまやま)」であり、「火山」のことである。後に「浅間山」という字で書かれる山の名は「火山」とおなじ「一般名詞」である。

 

 そしてもっと古い名は秘密であった。

 

 それで、「肥」に。それで「肥前」に。

 

 そしてその本当の名は日本各地に残るが誰も気づかない。

 

 つまり、それは「秘密」であった。気付かない名に変えられた。

 

 「朝熊」、、、、。

 

 そして四国は「伊予の二名の島」であり、これも前に説明したから省くが、「名は二つ」あった。 そして「伊予」は「エヒメ」に。「土佐」は「タケヨリワケ」。「タケヨリワケ」は「タケヨリ」の分かれ。「タケヨリ」とはだれか?

 

 「タケヨリワケ」は「建依別」であり、「建依和気」でもある。「建」の付く名は多い。武内宿禰も「建内」、「建角見」も「建御雷」もそうである。

 

 「依」の付くのは「玉依姫」。「玉依姫」は「トヨタマヒメ」の妹か子。では、もし「建依彦」なら、さしずめ「トヨタケヒコ」の弟か子になるか。「建依別」は「建依彦」の分かれか、「トヨタケヒコ」の分かれとなる。

 

  ところが、もともと「豊国」は「トヨヒワケ」で「豊肥別」。そして「肥国」は「タケヒワケ」で「建肥別」。面白いことに最初から「別」がついている。かれらはだれから分かれたのか?

 

  「トヨタケヒコ」なんてものは日本にはいなかった。もともと「トヨヒワケ」と「タケヒワケ」という「和気」であった。「タケヨリワケ(土佐)」は「タケヒワケ(肥)」と「トヨヒワケ(豊)」の弟か子ということに。   

  

 「タケヒワケ」は「建肥別」。

 

 

 

 「臺与(豊)」には菟沙(宇佐)が。「都沙(土佐)」にも菟沙(宇佐)が。

 

 「建」は「竹」でもあり、「武」でもあるが、「タケル」でもある。

 

 

 

 「ヤマトタケル」のもとの名は「熊襲(タケヒムカヒヨトシヒネワケ)」の「川上タケル」。そういえば「出雲タケル」もいた。「タケヒムカヒヨトシヒネワケ(熊襲)」は「建日向伊予年日根別」であるが、「建日向肥豊久士比泥別」でもあり、「熊襲(球磨曾宇)」にも「建」がつく。

 

  

 つづく

 

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