『日本国記』  限りなく真実に近いアナザーストーリー 土佐神社には高賀茂に座す「葛城一言主」が 5C   ひじかたすいげつ 


つづき

 

 高知県はもとは土佐国。奈良時代に国府が置かれたが、それ以前はどうであったのか。不思議と古い地図には四国とは書かれておらず、だいたい“トサ”と書かれている。明治維新頃の外国の地図にも“TOSA(トサ)”と書かれている。そして、土佐の古い地名が“土左”であり、さらに古い地名が“都沙”である。

 

 そしてよく考えれば、東西に長い高知県は謎だらけである。古事記には、今の「土佐神社」である「高鴨神社」が雄略天皇の御代に勧請されたらしいことが書かれている。土佐国編年記事略巻1には次のようにある。

 

 四年庚子春二月天皇葛城山二猟シ玉フ。時ニ忽チ長人アリ、面形天皇ニ似タリ、天皇神人ナルコトヲ知玉フ故、何処ノ公ソト問玉フ、神答テ曰現人願ハ皇諱ヲ称セヨ、天皇勅答シ玉ハク 朕ハ是レ稚武彦尊ナリ 長人曰僕ハコレ一言主神也ト遂ニ 与ニ盤干游田ス、時神天皇ト相競ヒ不遜ノ言アリ、天皇大ニ憤テ土佐ニ移シ奉ラル。神髄而降ル時神身ステニカクル故ニ祝ヲ以テ是ニ代フ、初メ賀茂ノ地に到り後高加茂ノ社ニ遷座ス 一言主命ハ即葛城ノ高賀茂ニ座ス味鋤高彦根尊也(古事記・なお日本文学第二号「雄略天皇の相貌」榊原忠彦氏参照)

 

 高知の土佐神社のある地は「賀茂の地」であり、土佐神社は「高加茂社」と呼ばれていたことが書かれている。そしては「一言主」は「葛城の高賀茂」に祀られる「味鋤高彦根尊」であるとも。

 

 「高賀茂の神」は土佐の「賀茂の地」へ遷座させられたということに。高知市一宮は当時、「賀茂の地」であった。そしてその葛城の「一言主」は「面形天皇に似たり」とある。稚武彦尊と一言主は兄弟であったことに。


 そういえば、成務天皇と「オオウス(武内宿禰)」は双子であった。付け髭を換えて、時々交代していたといわれる。稚武彦尊である雄略天皇に家ごと焼かれた葛城円も「武内宿禰」であった。そこにも謎がある。彼は、家は焼かれたが、死んだのではなく、土佐に流されたのかもしれない。

 

 葛城の「一言主」は葛城氏でもあり、「武内宿禰」つまり蘇我氏の親族でもあり、賀茂の「味鋤高彦根尊」とも考えられる人物であったことになる。「賀茂」から「葛城」「蘇我」に。

 

 そして、大和に。

 

 「大和」は崇神天皇であり、「海神」の娘は「豊玉姫」であり、その後の「蘇我」もここを踏襲している。

 そして、宇佐神宮には「神功皇后(ヒメ大神)」と「武内宿禰(クロオ)」が祀られている。

 

 「大和」は、、、、。

 

 つづく

 

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