前にも書いたが、藤原道長は関白にはなっていない。

 

 「御堂関白記」は藤原道長の日記。

 

 でも、当然自分でつけた名前ではない。

 

 日記だからである。

 

 昔の人はよく日記をつけたが、これは自分が過去をなつかしんだり、振り返ったりするための自分が読むためのものではない。

 

 他家には見せない、自家のための一種のマニュアルである。

 

 

 吉良上野介に接待の方法を教えてもらおうとした浅野内匠頭は考えようによれば、教えてもらうための努力が足りなかったのかもしれない。いろいろな儀式や場面での所作や準備をどのようにするかということは、各家の一種の口伝であり、一子相伝の秘伝だったりする。

 

 吉良上野介も簡単には教えられないと思うのも、今となっては理解もできるが、あとの顛末が「忠臣蔵」となっては、吉良上野介も悪者にならざるを得ない。

 

 

 つまり、「御堂関白記」も一種の口伝を書き留めたものである。

 

 口伝なら書いてはいけないのだが、量が多いと書かないと忘れてしまう。

 

 「帝皇日嗣」ですら、そうらしい。

 

 本当は書かれたものがあると。

 

 「蘇我入鹿」が乙巳の変で殺された後、入鹿の屋敷が燃やされた。

 

 「帝皇日嗣」はそのとき焼失したといわれているが、実は今もあると。

 

 

 各家家では先代や以前の例を参考にしてことに臨むと失敗がない。

 

 そのため自分の家に伝わる「日記」を読む。

 

 つまり、「日記」は現在の「マニュアル」であった。

 

 

 そのため、書くほうも子や孫が後々困らないように、「日記」にこのときはこうしたらよくて、こうしたら悪かったみたいなことを、読まれることを前提にして書いていたらしい。

 

 

 

 

 とくにこの日記は「藤原道長」だから面白い。

 

 時の一条天皇のとき、娘彰子をどうにかして入内させたが、先に中宮定子がいるので、定子よりも先に男子を生まさなければならないので、いろいろ頑張った。

 

 晴れて彰子は男子を生み天皇の祖父となった。

 

 その辺のことは皆さんのほうが詳しいと思うので省きますが、定子についていたのが清少納言。

 

 清少納言は家柄も‘清原’。頭もいいし、なにせ「枕草子」を書いた。

 

 これは定子を慰めるためのもの。

 

 しかしこれが有名になった。

 

 そして、清少納言が引退したのと入れ替わりに、紫式部が彰子についた。

 

 紫式部は、家柄もよくなく、「清少納言様は素晴らしかった。」という話ばかり聞かされて、コンプレックスがあったらしい。

 

 そして、自分の付いた彰子が、どうにか一条天皇の寵愛を受けるように頑張ろうとしたらしい。

 

 それで、頑張って「彰子のための」源氏物語を書いた。

 

 

 

 

 ところが藤原道長は自分の娘彰子に、「源氏物語の次の回はどうなるか知ってるか?」と聞いた。

 

 その時点で彰子は切れた。「なぜ私のための源氏物語の次の回を父親が知っているか。」に気づいた。

 

 そう。藤原道長は紫式部とそういう関係になっていたことに。

 

 

 

 人のことは言えないが、藤原道長も馬鹿親だったらしい。

 

 という藤原道長の「御堂関白記」。

 

 

 

 

 <おまけ>

  実は、清少納言も藤原道長のことが好きだったらしい。

  藤原道長は自分がついている定子の敵方だったにもかかわらず。

 

  やはり、紫式部が書いた「源氏の君」は、欠けるところのない「藤原道長」だったらしい。

 

 

 

 

 

  

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