「出雲王国とヤマト政権」によれば、

出雲 向 富 登美 とみ トビ ・・・・・・トビから連想して、物部たちから八咫烏と呼ばれたのは太田タネコこと太田タネヒコ。

そして、そう呼ばれた第一次物部東征のあったのは、フトニ孝霊天皇の時代。

 

「古事記の邪馬台国」によれば、

倭国大乱は孝の文字がつく、カエシネ孝昭天皇からクニクル孝元天皇までの時代。

 

両者の話は合うが、「魏志倭人伝」にいう倭国大乱は時代が違う。

 

「卑弥呼はいなかった!」の年代表から考えると、「魏志倭人伝」のいう倭国大乱は時代が違う。第二次物部東征のあったイニエ崇神天皇とイサチ垂仁天皇の時代。

 

倭国大乱は二回あった。

 

神武東征は、第一次物部東征ではなく、イニエ崇神天皇による第二次物部東征になぞらえて「記紀」が描いた。だから瀬戸内海。

 

第一次物部東征は土佐沖を渡った。だから直接熊野に行けた。行ったのはイツセ五瀬とウマシマヂ宇摩志麻遅。ミケヌやイナイやワカミケヌサノはいなかった?

 

倭国大乱は「魏志倭人伝」の表現。実際には何度も大乱はあり、「台与」の後も乱れた。「台与」は「豊」。崇神天皇の后である「豊玉姫」。豊玉姫の後を継いだ垂仁天皇が東征した。崇神天皇は豊で、豊玉姫は瀬戸内海東征の途中で亡くなった。

 

後の神功皇后の話と被って、混同され、「記紀」では「卑弥呼は神功皇后」のように描かれた。

 

つまり、元々の八咫烏は太田タネヒコだった。登美トビの。その時の大王は孝霊天皇の時代ではあったが、彼は吉備に進軍し、吉備王国を作ったが、大和はすでに物部と太田タネヒコによる政権、孝元天皇の時代になっていた。だから彼は大和には帰れなかった。

 

孝霊天皇も孝元天皇もタカミムスヒの末裔。物部も元は同じ。登美は冨・出雲カミムスヒ。

 

「記紀」は神武東征の話に、第一次物部東征の事実を部分的に混ぜた。物部はニニギでありニギハヤヒの末裔。登美は太田タネヒコ八咫烏。

 

「記紀」では神武天皇を迎え撃ったのはナガスネヒコ。ナガスネヒコはナカソオオネ仲宗大根つまりオオヒコ大彦。

 

物部と太田タネヒコと孝元天皇のことを、事実と混ぜて、神武天皇とニギハヤヒと八咫烏の話に変えたのでは?だからニギハヤヒと。

 

 

 

 

「記紀」でいう賀茂別八咫烏は神武天皇の時代。神武天皇と八咫烏は兄弟とも。当然、義理の。

 

「出雲王国とヤマト政権」でいう八咫烏は賀茂の祖である太田タネヒコ。だから賀茂別の祖ではない。

 

ほんとうの八咫烏である賀茂の大御神はまた別。

 

 

 

 

一般に分家は名字の文字を変えるといわれる。向が富になったあとは、富が登美になり、登美が太田になった。太田タネヒコは賀茂の祖といわれる。