村田真さんのヴェネチア・ヴィエンナーレ報告を聞いて、思ったこと | 土方美雄の日々これ・・・

村田真さんのヴェネチア・ヴィエンナーレ報告を聞いて、思ったこと

1つ前のブログの、続きです。

私は、今年のヴェネチア・ヴィエンナーレが、移民や先住民のアートをクローズアップすることに、決して、批判的ではないし、むしろ、ヴィエンナーレやトリエンナーレ等の国際的な美術展が、自ら率先して、時代の最先端のアートを取り上げることは必要と考える立場ではありますが、しかし、確かに、少し、やり過ぎだなぁ・・という気も、同時に、します。

というのも、前のブログでも触れたように、アメリカ館が、先住民出身のアーティストを代表に起用し、極めて先住民色の濃厚なアートを展示したこと自体には、もちろん、何の異議もありませんが、ただ、これが、現代のアメリカのアートシーンを、正直、どこまで反映しているのかについては、疑義があるのです。

たとえば、日本館が、毛利悠子ではなく、アイヌ出身のアーティストを代表に起用して、アイヌの伝統に基づいたアートを展示したら・・と考えれば、その違和感は、より明白になるのではないか。もちろん、アイヌの伝統に基づく美術を紹介すること自体に、問題があるなどと考えているわけでは、まったく、ないことが、その前提です。しかし、それが日本の現代アートの最先端かと問われれば、残念ではあれ、そうではないと、思います。アートとは、主義主張ではなく、もっと、多様で、自由であるべきであると、少なくとも私は、そう、思います。政治的、社会的な問題を問うことも、もちろん、必要ですが、単純に、ああ、美しいなぁ、楽しいなぁと思うアートも、同時にあって、しかるべきではないのか。

そんなことを、村田さんの報告を聞きつつ、私は考えました。

また、村田さんが撮ってこられた映像を観つつ、考えたことは、ヴィエンナーレ等が紹介する最先端のアートが、あまりにも、映像やインスタレーションに集中しているのではないか、ということです。

平面作品は、確かに、現代アートの主流ではなくなりつつあるが、でも、たとえば、アート・フェア等で、高額で取引されているアートの大半は、油彩画等の、平面作品ではないのか。そういえば、村田さんも、平面作品のアーティストでした(残念ながら、高額で取引されているか、どうかは、私にはわかりませんが)。ハイハイ、自分自身が、へなちょこ、なんちゃってインスタレーションのつくり手なのに、どの口がそういうことをいうと、さぞや、そうお思いでしょうが・・。

アートとは、多様な文化であるべきです。その多様さを失った時、現代アートの最先端は、単なるアートの墓場になるのではないか。そんなことを妄想する、私です。

つまらんことを、長々と、書きました。とりあえず、このへんで、やめます。