三重県熊野市県境地域の廃校休校巡り(2024/04/07) | haiko-riderのブログ

haiko-riderのブログ

2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

熊野市(くまのし)は、三重県南部にある市です。

今回は、市の西部に位置し、和歌山県境と接する

地域(紀和町、育生町、神川町)の廃校休校巡りです。

過去に訪れたことがあり、久しぶりの訪問となりました。

三重県熊野市(紀和町)、和歌山県新宮市(熊野川町)の風景と廃校休校巡り(2011/05/21)

奈良県、三重県、和歌山県境の風景と廃校休校巡り②(2011/05/15)

13年ぶりに訪れた校舎は、変わらず手入れされているものも

あれば、経年劣化が激しく朽ちているものもありました。

 

具体的には、上図の通りですが、現役校も2校含みます。

 

紀和町(きわちょう)は、かつて三重県南牟婁郡(みなみむろぐん)

にあった町です。

2005年(平成17年)11月1日に熊野市と新設合併して新しく

熊野市が発足し、紀和町は廃止されました。

合併後、市内で最も面積の広い町となっています。

紀和町鉱山資料館(右の白い建物)は、1995年(平成7年)に

オープンしました。(合併後は、熊野市紀和鉱山資料館に改称。)

紀和町の歴史はもちろん、長い歴史の中で

重要な産業として営まれてきた鉱山の盛衰が分かり、

先人たちの知恵や工夫を知ることができます。

紀和地区の鉱山の歴史は古く、1200年以上も昔の奈良時代に
鉱山で採れた銅を奈良の大仏建設のために供出していたそうです。

 

看板の上には、鉱山労働者の像が立っています。

紀和町は、鉱山の町として栄えましたが、1978年(昭和53年)に

閉山すると人口は急減し過疎化が進みました。

最盛期には総合病院や映画館もありました。
 

選鉱場跡

選鉱場では、鉱山から運び出された鉱石の粉砕および、選別が

行われていました。

兵庫県朝来市の明延鉱山の神子畑選鉱場が有名ですが、こちらも

なかなかのものです。。

天空の城ラピュタの要塞に似ていますね。。

 

左端のレールは、インクライン(傾斜気道)と呼ばれ、

坑道から運び出した鉱石をケーブルカーで一番上まで運び、

様々な工程を経て鉱石を下に送りながら選鉱を行なっていました。

 

資料館の庭に展示されていたケーブルカー

 

湯元山荘「湯ノ口温泉」と入鹿温泉「ホテル瀞流荘」との間、

約1kmのレールは、かつて鉱山用に使用されていたトロッコの

軌道です。

 

その後、観光用のトロッコ電車として使用されるようになりました。

 

現在は、坑道を含めた施設の安全点検のため運休中となっています。

 

トロッコ電車の軌道

紀伊半島の険しい山中に位置するため、大半がトンネルでした。

 

再開できれば、乗車してみたいですね。

レトロなトロッコ電車。。

 

紀和鉱山資料館から県道765号を1kmほど東へ進むと、

入鹿(いるか)中学校(現役)があります。
 

体育館

立派な木造体育館です。

 

植栽の新緑も輝いています。

 

校舎の全景

やはり目を引くのは校舎です。

1998年(平成10年)築から26年ほど経過していますが、

「日本一美しい木造校舎!」と云うほどのことはあります。

良質な木材を存分に活用して建てられたお城のような校舎です。

山間部の過疎地域のため令和6度の生徒数は、

1年生1名、2年生6名、3年生3名の合計10名

となっています。

 

天空へ聳え立つ時計塔

校歌
一、
そびえたつ 峰につかえて
入鹿川 しずかに流る
うつたる山塊 うつたる山塊
この山を われら敬う

 

入鹿小学校(現役)

中学校から500mほどの場所にあります。

こちらは、瓦屋根の鉄筋校舎ですが、時計塔が聳え立つ外観は

中学校と同じです。

全校児童13名(令和6年)と大きな校舎を持て余すほどの

少人数です。

 

国道311号を東へ進み、矢ノ川(やのこ)地区に入ります。

沿道から校舎へ続くスロープを上ります。
 

年季の入った校門が2基、荒廃した校庭の奥に赤い屋根の校舎が

L字型に続いています。

 

手前の校舎は、サッシ扉の簡素な玄関ですが、給食室か、特別教室

だったのでしょうか。。

 

手前の校舎の全景

 

さらに、横に長い校舎が続きます。

1959年(昭和34年)築の木造校舎です。

枯れすすきに覆われて分かりづらいですが、

2階建て校舎ではなく、一段高い石垣に建つ平屋校舎です。

 

前回訪問時の校舎(2011年5月21日撮影)

13年ほど前は、このように美しい外観でした。。

 

独特の書体の表札

右から読むと、矢ノ川校と書いてあります。

 

校長室

 

教室の様子

往時の椅子や黒板は残っていますが、廃材等も放置されて

散らかっています。

 

別の教室は、古いテレビやラジカセ、陳列ケースなど雑然と

しています。物置と化していました。

 

昭和30~40年代までよく見かけた手廻しの脱穀機

休校後に展示館として使用されていたのでしょうか。。

 

校時表と壁時計

昭和の時代は土曜も授業がありました。。

 

夏休みの前、7月の行事予定表

何年度のものか不明です。

 

廊下や天井は雨漏りで腐食が進み、朽ちていました。

 

ボロボロになった地球儀

 

石膏像は不思議と劣化していませんでした。

 

スクールベル

授業のはじめや終わりにチャイム代わりに鳴らして

いたのでしょうか。。

 

児童らが描いた絵画が掲示してありました。

手前は校舎が活き活きと描かれています。

 

往時の栄光の数々

 

昭和50年~60年代の表彰状ですが、右2枚は腐食し黒く変色してます。

いずれも、七夕飾りコンクールやたなばた競書大会での

優秀な成績を称えるすばらしい賞状の数々です。

大切に残していきたいものですが、その保管場所や管理する人や

経費が捻出できないのでしょうか、朽ち果てるままとなっています。

 

校長室に掲示してあった額のひとつにモノクロ写真があります。

1977年(昭和52年)4月撮影の集合写真です。

中央に開校百年記念碑、20名ほどの児童がいたようです。

今では50代となっておられることでしょうね。。

 

校庭の様子

 

開校百年記念碑

さきほどのモノクロ写真はこの場所で撮ったようです。

 

矢ノ川小学校(1988年休校)

沿革をみると、

1875年(明治8年)東禅寺を仮校舎に矢ノ川学校として開校
1892年(明治25年)矢ノ川尋常小学校に改称
1920年(大正9年)現在地に校舎新築移転
1947年(昭和22年)矢ノ川小学校に改称
1959年(昭和34年)現校舎新築完成
1987年(昭和62年)全校児童12名
1988年(昭和63年)休校

前回(2011年5月)に比べて廃墟感が増しており、

往時の栄光の証である表彰状の数々が校舎とともに

朽ち果てていく様子をみて、何か切なく残念な気持ちに

なりました。

 

矢ノ川小学校を後にして、国道から林道を北へ上って行きます。

 

満開の桜に心が和みます。

なだらかな傾斜地は、山々や樹木に囲まれて緑に溢れています。

 

 

その傾斜地は、小さな棚田でいっぱいです。

 

水車小屋の上にも棚田の石積みが続いています。

 

丸山千枚田は、白倉山(標高736m)の南西斜面を利用した

棚田群で紀和町の景勝地のひとつとなっています。

 

後継者不足と高齢化、更に当時の減反政策やコメの価格低迷、
機械化が難しいことなどの要因も重なり、耕作放棄が進み、

1992年(平成4年)には530枚まで減少したようです。

その後、棚田の復興のため住民らの協力により約1340枚まで

回復しました。

観光資源にも活用されていますが、維持するのに経費も掛かるため、

一部はオーナー田として活用し、毎年全国から100組を超える

申込があるそうです。

一番小さな田んぼ?

もしかして。。

 

畳一畳分より小さいくらいです。

 

千枚田の景観

 

桜と千枚田

 

県道40号(熊野矢ノ川線)を北に進み、紀和町北部の

長尾集落に入ります。

山の谷間、なだらかな傾斜地に民家が密集しています。

日本の原風景のような郷愁漂う眺めです。

 

少し進むと、3棟の平屋校舎と黄色い壁の体育館が建っています。

 

航空写真ではこのような配置です。

南側校舎、中央校舎、北側校舎が3棟並び、その横に体育館です。

 

右から南側校舎、中央校舎、北側校舎です。

長閑な山間集落に3棟もの校舎が堂々と立つ姿は、

改めてその存在感に圧倒されます。

 

南側校舎

 

廊下の様子

廃材が放置され雑然としています。

ツタが窓の隙間から天井まで侵入してきており、廃墟感が増して

います。

 

5年の教室札をみると、南側校舎は高学年の校舎だったようです。

 

教室の様子

 

小さな黒板

 

貼り絵の校舎

往時の3棟の屋根は赤、緑、黒だったようです。

 

学級目標

上級生らしい標語もありますね。。

 

奥に給食・家庭科の室札が見えます。

 

給食・家庭科の教室

 

黒板の上の貼り絵は、童話に出てくる登場人物でしょう。

 

南側校舎と中央校舎は奥の渡り廊下で繋がっています。

コンクリート跡は花壇や池の枠でしょう。

 

中央校舎の玄関

 

木板の表札

 

ガラス越しに撮った玄関内部

中央校舎には職員室がありました。

 

中央校舎と北側校舎の間は、石積みの池跡や植栽が

残っていました。

 

北側校舎

低学年の教室がある校舎でした。

 

体育館への通路

 

北側校舎と体育館の間に開校百年碑が建っています。

かなり年季の入った石碑です。。

体育館の全景

体育館は3校舎より後に建てられました。

校庭の様子

 

石垣の溝に放置された整地ローラー

南側校舎と中央校舎

 

中央校舎と北側校舎

切妻屋根の同型の平屋校舎ですが、屋根や壁の配色、

玄関や窓の形状などが微妙に異なっています。

 

入鹿小学校西山分校(1990年休校、1991年廃校)

1887年(明治20年)開校
1911年(明治43年)西山尋常高等小学校に改称
1922年(大正11年)現在地に校舎新築移転
1947年(昭和22年)西山小学校に改称
1953年(昭和28年)北側校舎改築完成
1956年(昭和31年)南側校舎改築完成
1960年(昭和35年)中央校舎改築完成
1964年(昭和39年)プール完成、完全給食実施
1987年(昭和62年)全校児童8名
1989年(平成元年)4月 入鹿小学校西山分校に改称
1990年(平成2年)4月 休校
1991年(平成3年)廃校

かつては、長尾地区をはじめ、赤木、平谷地区を校区として

多くの児童が通っていました。

やがて、紀和鉱山の閉山(1978年)により、児童数も急減、

やむなく休校そして廃校となってしまいましたが、

3校舎揃い踏みの圧倒的な存在感は、廃校になった今も

変わらず健在です。

 

西山小学校跡から坂を西へ下りて行きます。

お寺の奥に校舎が見えます。

西山中学校跡です。

 

西山小学校跡からの位置関係はこの通りです。

コンクリートの歩道を進むと一棟目の平屋校舎です。

小学校とよく似た切妻屋根の平屋校舎です。

さらにその隣にタイル張りの建物が続きます。

間口の広い玄関の校舎です。

 

廊下の様子

小学校よりも新しく綺麗な廊下です。

 

薄いピンクを基調とした壁や窓枠、自然と柔和な気持ちになります。

 

教室の様子

 

教卓と一脚の椅子

この教室での最後の授業は生徒一人だったのでしょうか。。

 

時間割表

 

廊下に放置された鉄琴

中央校舎の隣にも平屋校舎が続いています。

平屋校舎

平屋校舎(反対側)
奥に石碑らしきものが見えますが、表面が剥がれていました。

 

奥の平屋校舎は講堂でした。。

 

校舎群の前はコンクリートで固めてありますが、奥行きが狭いので、

全ての校舎を一度に撮ることは出来ませんでした。

 

桜並木の下に校庭があります。

校庭の様子

西山中学校(1991年休校)

沿革を見ると、

1947年(昭和22年)西山中学校として西山小学校で授業開始
1948年(昭和23年 学区統合により育生小学校で授業
1955年(昭和30年)現在地に校舎新築移転
同年、瀞東中学校西山分校から独立、西山中学校に。
1987年(昭和62年)山村留学制度開始、5名受け入れ
1987年(昭和62年)全校生徒13名
1991年(平成3年)休校
休校時の在校生徒は、僅か3名でした。

 

引き続き県道40号を北上、分岐路を県道52号(御浜方面)に

折れて南下します。

 

ほどなく育生中学校跡に着きます。

この後、育生小学校跡を目指しますが、位置関係は上の通りです。

沿道から校門と木造校舎が見えました。

 

門柱の表札はしっかりと残っています。

 

校舎の全景

保存状態も良好、手入れのされた大変美しい木造校舎です。

 

中央部の近景1

庭の植栽も手入れが行き届いています。

 

中央部の近景2

端正な外観に品格が漂います。

正面玄関の近景1

校舎は左端に棟が続いておりL字型になっています。

 

校庭の芝生の陰に野うさぎが遊びに来ていました。

 

染井吉野が鮮やかに校庭を照らします。

 

桜のすだれ越しの木造校舎

育生中学校(2004年休校)

長い廊下が特徴の美しい木造校舎です。

桜の咲く頃に再訪したいと思っておりましたが、何とか

叶いました。。

沿革を見ると、

1947年(昭和22年)瀞東中学校として開校
1948年(昭和23年)瀞東中学校神上分校、瀞東中学校小森分校を開校
1951年(昭和26年)西山教室を開講
1960年(昭和35年)全校生徒87名
1967年(昭和42年)育生中学校に改称
1968年(昭和43年)特別教室新築
1984年(昭和59年)校庭夜間照明完成
1987年(昭和62年)全校生徒11名
2004年(平成16年)休校

最盛期には351名の生徒が在籍していたようですが、過疎少子化に

より、最期は3名の卒業生を送り出して休校となりました。

2005年(平成17年)9月 育生保育所・育生中学校跡を活用した

「サラヤ株式会社熊野食品工場」が完成し会社施設として

活用されています。
綺麗に保たれていた訳が分かりました。。

 

育生中学校から橋を渡った丘の上に育生小学校があります。

コンクリートの校門の銘板は劣化していました。

白い壁の校舎と肌色の壁の体育館がL字型の配置となっています。

校舎の全景1

中学校と異なり、重厚な2階建て鉄筋校舎です。

 

校舎の全景2

壁面の一部や玄関はレンガ色で配色されています。

 

正面玄関の近景

体育館の全景

こちらもレンガ色の梁が特徴です。

耐震補強されています。

 

校庭の様子1

校庭の様子2

 

遊具の一種と思われますが、使い方は不明です。

 

床の抜けた朝礼台

 

整地ローラー

 

開校百年碑

判読しづらいです。。

 

開校百年碑(裏面)

1975年(昭和50年)建立ということは、

1875年(明治8年)開校でしょうか。。
 

育生小学校(2001年休校)

後日調べましたが、沿革の詳細は不明です。

1875年(明治8年)開校

1987年(昭和62年)全校児童25名

校庭の角に立つ桜に訊けば、学校の歴史や思い出を語って

くれることでしょう。。

 

和歌山県境の北山川沿いに県道34号(七色峡線)を進み、

神川町に入ります。

神川町は那智黒石の産地として有名です。

那智黒石は熊野市だけで採れる天然石で、硯や碁石の最高級品

として使用されています。

 

当日は桜まつりの幟が立ち、賑やかな雰囲気でした。

 

校門に桜覧会(さくらんかい)の看板

毎年、桜の開花に合わせて開催されるお花見イベントです。

神川町は桜の名所で、約1500本の染井吉野や山桜が植えられ

多くの花見客で賑わうそうです。

 

校庭を囲む立派な桜並木が祭りの華やかさを演出します。

訪れたのが16時前でした。

人影は疎らで、祭りの後片付けの最中でした。

祭りの関係車両やキッチンカーが残っています。

 

桜と木造校舎は良く似合います。

 

車両が写り込まないよう近くで撮影します。

 

頭上に広がる桜の花を見上げつつ石段を進みます。

 

 

重厚な造りの玄関

天井にランプが灯っていました。

構内も見学できそうです。

 

前回は構内は見れなかったので、この時期に来られて良かったです。

 

生徒たちの版画作品「理科実験」

 

廊下の様子

 

教室の様子

 

別の教室は、地域住民の集会や囲碁サロンに利用されています。

 

畳敷きの和室に改修してあります。

 

ガラス窓越しに映る桜並木

 

学校のスローガン

 

便所

校舎裏

板張りの壁や木枠の窓、近年は見られなくなりました。。

 

校舎の左手奥の黄色い建物は体育館です。

 

桜が満開の時期に訪れることができて幸運でした。。

 

神上(こうのうえ)中学校旧校舎(2003年移転)

沿革をみると、

1947年(昭和22年)4月 六三制実施に伴い、小学校に

神川中学校を併置
1948年(昭和23年)7月 学校再編成により神川村・西山村

組合立瀞東中学校神上分校と改称
1954年(昭和29年)11月 町村合併により熊野市誕生、

熊野市・西山村学校組合立瀞東中学校神上分校と改称
1955年(昭和30年)3月 町村合併による紀和町誕生に伴い、

熊野市・紀和町学校組合立瀞東中学校神上分校と改称
同年4月 学校組合解散により熊野市立瀞東中学校神上分校と改称
1960年(昭和35年)4月 独立が認められ、熊野市立神上中学校となる

1987年(昭和62年)全校生徒17名
2003年(平成15年)4月 神上小学校と校舎統合、

現校舎は使われなくなりました。

現在は、地域住民の憩いの場として活用されています。
 

県道34号を神上川に沿って南下すると、神上小中学校が

あります。

位置関係は上の航空写真のとおりです。

神上は長閑な山間集落です。

石垣の上に白い鉄筋校舎が見えます。

目を引く一文字看板は、神川町の宣伝にもなっています。

「那智黒石の里」「桜の名所」

 

石段の袂に門柱と表札です。

「神上小中学校」

 

往時は、この石段を利用して登下校していたのでしょう。。

 

敷地の奥行きが無いため、校舎の全景は写せませんでした。

広い間口の玄関です。

 

2階建て校舎は横に長く伸びています。

校庭に廻ると、校舎と体育館がL字型に建っています。

体育館はプレハブを補強したような建物で、さきほどの育生小学校で

見たのとよく似ております。

 

校庭の様子

きれいに整備されていました。

遊ばれなくなった遊具たちを傍らの桜が慰めていました。。

 

神上小中学校(2020年休校)

沿革をみると、

1873年(明治6年)9月8日  神上・長原・花知の三区連合学区に

小学校を設置、創立当初は神上区嶺泉寺を校舎に代用する
1892年(明治25年)10月 神上尋常小学校と称す
1947年(昭和22年)4月 南牟婁郡神川村立神上小学校と改称
同年 神川中学校を併置
1954年(昭和29年)11月 町村合併により、熊野市立神上小学校と改称
1973年(昭和48年)11月 学校創立百周年記念事業実施
2003年(平成15年)4月  神上中学校と校舎統合
2020年(令和2年)休校
山間部の小規模校のため、複式学級を導入、小1から中3の

児童生徒が同じ校舎で学んでいましたが、児童数減少により

休校となってしまいました。

休校時の生徒は3名、児童は1名でした。