青森県つがる市、鶴田町の廃校休校巡り(2022/09/19) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

前回に引き続き、青森県の廃校休校巡りです。

前回(深浦町、鰺ヶ沢町)の記事は⇒ こちらへ

つがる市は、青森県中西部の市です。青森県内の平仮名市名としては、

むつ市に次いで2例目となります。
2005年(平成17年)2月11日:西津軽郡木造町、森田村、柏村、

稲垣村、車力村の1町4村が合併して誕生しました。

かつては、一面不毛の湿地帯だったそうですが、新田開拓のために

先人たちが悪条件やさまざまな障害に立ち向かい、たゆまぬ努力を

注いで開拓した地です。

 

鶴田町は、北津軽郡に属し、津軽平野の中央に位置しています。

町の南には秀峰岩木山を眺め、町の真ん中を岩木川が流れる

田園風景が広がっています。

津軽地方の他の市町村と同じくリンゴ栽培が盛んですが、
ブドウの品種「スチューベン」生産量が日本一を誇ります。

富士見湖パークを会場に、毎年ゴールデンウィークの頃に開催される、

鶴の舞橋桜まつりが有名で、岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す

津軽富士見湖に架かる全長300mの橋は、三連太鼓橋では日本一長い

木橋です。鶴と国際交流の里・鶴田町の新しい魅力となっています。

 

鰺ヶ沢町の県道12号を北上、木造越水(きづくりこしみず)地区に

入ります。越水郵便局付近に廃校舎が残っています。

アスファルトが敷かれた導線を進みます。

 

校庭もアスファルト、撮影した校舎も無機質な感じです。

 

 

斜めから撮った校舎

 

校舎の前の建物は、地元消防団の格納庫となっています。

 

元々学校の施設だったのか不明ですが、玄関をみると、

越水コミュニティ消防センター、集会所と消防施設が一緒に

入っているようです。

 

校舎の玄関

トタン屋根に鉄製の角材、コンクリート基礎、殺風景なものでした。

 

コミュニティ消防センターの陰で見えませんでしたが、

奥にも白い壁の校舎が続いています。

 

錆びたトタン屋根、ベージュの外壁の校舎ですが、

外壁に文字板の枠だけ残っています。

往時は、学校のスローガンが掲げてあったようです。

 

校舎の前にポツンと佇むバスケットゴール

 

アスファルトの庭で勇ましい姿の黒松

 

花壇

地域の人が手入れをしているのでしょう。

無機質な校舎に彩を添えていました。

 

閉校記念碑かと思いましたが。。

全日本健康優良学校

全国特別優秀校

日本一受賞記念碑

1990年(平成2年)11月3日

 

越水小学校(2002年閉校)

特に山奥でもなく民家や畑の広がる場所にある小学校です。

1987年(昭和62年)の全校児童は117名、

2002年(平成14年)つがる市立穂波小学校〈当時:木造町立〉への

統合に伴い閉校となりました。

統合先の穂波小学校は、出来島・吹原・越水・下福原・柴田・菊川の

各小学校が統合して設立された学校ですが、全校児童は115名

(2021年度)と決して多くないことから、過疎少子化が進行して

いることが分かります。

 

引き続き県道12号を北上、程なく「青い森国土保全共同組合」の

看板が見えてきます。

 

そして、沿道に校門と表札が見えました。

 

かまぼこ屋根の古い体育館や平屋の建物の前に10台ほど車が

停まっています。

体育館の他に奥に赤い屋根の建物が数棟見えます。

 

後日、空中写真で確認したところ、手前の体育館と、コの字型の

校舎が繋がっています。

 

平屋の校舎は事務所、作業場として使用されているようです。

係りの方にお声を掛けて内部を見学させて頂きました。

 

玄関内部の様子

 

木彫りのフクロウ

 

廊下の様子

 

教室は会議室になっています。

 

階段の様子

中央の白線に往時の名残が見られます。

 

2階の廊下

 

2階の手洗い場

コの字になっているので、同じ校舎が対峙して見えますが、

中庭は荒廃していました。

 

校舎裏の様子

雑草に覆われ近付くことはできません。。

 

木造西中学校(2008年閉校)

木造中学校(旧)、館岡中学校とともに、木造中学校(新)への

統合に伴い閉校となりました。

校舎は「青い森国土保全共同組合」として使用されています。

廃校をリノベーションし、林地残材を、二酸化炭素を発生させず

炭素(炭)に変えて地球に帰す運動、※カーボンマイナス”を揚げて

事業活動を行っております。(HPより抜粋)

 

県道12号を南下、国道101号を経由、県道153号を東へ進み

鶴田町妙堂崎(みょうどうざき)地区に入ります。

妙堂崎小学校と記した木柱が沿道に立っています。

 

丸太の校門の奥に校舎が見えます。

 

芝生の校庭を囲むように、2階建て木造校舎と体育館が

L字型に並んでいます。

よく見ると、校舎と体育館は小さな玄関棟で繋がっています。

この玄関が体育館への入口となっているようです。

 

体育館の全景1

 

体育館の全景2

切妻屋根の重厚な木造建築です。

 

外壁には、仕切りの梁が並び、屋根や壁を支えています。

 

校舎の全景

グリーンの屋根が木造の温もりと相まって穏やかな雰囲気を

感じさせます。

 

秋空に映える木造校舎

1956年(昭和32年)築です。

 

校舎の近景

 

正面玄関の近景

 

校舎の前に連なる遊具の鉄棒

 

体育館の前には、錆びた雲梯

 

フェンス際の樹木に隠れそうなトーテムポール

 

創立百周年記念碑

早苗は 土に

花は 枝に

愛は 限りなく

昭和51年4月27日建立

 

妙堂崎小学校(2006年閉校)

グリーンを基調とした美しい木造校舎です。

沿革をみると、

1876年(明治9年)4月18日  妙堂崎村に校舎を新築、

妙堂崎小学として発足。
1886年(明治19年)4月9日  廻堰(まわりぜき)小学を併合し、

妙堂崎簡易小学校と改称。廻堰分校を設置。
1890年(明治23年)10月2日  妙堂崎簡易小学校と改称。
1895年(明治28年)11月14日 妙堂崎107番地に、校舎新築落成移転。

1947年(昭和22年)4月1日  学校教育法(旧法)施行により、

水元村立水元小学校妙堂崎分校と改称。
1948年(昭和23年)4月1日 -独立・昇格し、水元村立妙堂崎小学校

として発足。

1956年(昭和32年)1月2日 上棟式
1956年(昭和32年)3月17日 校舎仮引渡式

1987年(昭和62年)全校児童92名
2006年(平成18年)3月31日-本校と水元小学校(本校・田の尻分校)が

統合した水元中央小学校開校により閉校。
閉校となって16年経過していますが、保存状態も良いので、

別の目的で使われるかもしれません。

 

 

引き続き県道153号を南下、田園地帯にモダンな建物を

発見し立ち寄りました。

丸太を並べた独特な塀です。

 

校舎は赤茶とベージュのツートン、手前は近代的な円筒形

校舎です。

 

左端の体育館までコの字に続いています。

 

独特なデザインの校章

 

目を引くのは時計塔の上、2羽の鶴の舞です。

鶴田町のシンボル、鶴の舞橋をイメージしたものでしょう。。

 

水元中央小学校(2020年閉校)

先ほどの妙堂崎小学校の統合先ですが、近年閉校となって

しまいました。

沿革をみると、
2004年(平成16年)3月10日  統合校舎完成
2005年(平成17年)7月23日 落成式挙行
2006年(平成18年)4月1日妙堂崎小学校、水元小学校本校、

及び田の尻分校が統合し、水元中央小学校が創立
2019年(令和元年)12月1日- 閉校式挙行
2020年(令和2年)3月31日- 鶴田小学校に統合され、閉校

最後の児童は52名でした。

鶴田町の小学校はすべて統合され、鶴田小学校の一校のみ

となっています。

閉校となりましたが、まだまだ新しい校舎ですから、

別の目的に使われることでしょう。

 

引き続き県道153号を南下、同じ廻堰地区に旧校舎が残っています。

沿道の看板から、鶴田町歴史文化伝承館となっているようです。

 

石造りの校門に往時の表札。

 

奥に、妙堂崎小学校と同じく、グリーンの屋根の木造校舎が

見えます。

 

向かって左手に体育館(講堂)、正面に2階建木造校舎です。

L字型に建っています。
 

体育館(講堂)の近景

1907年(明治40年)築の歴史ある建物です。

 

校舎の全景

こちらは1936年(昭和11年)築です。

横に長い校舎のため、このアングルで全景がやっと入ります。。

 

校舎の近景1

玄関横の2本の松の木が、存在感を示しています。

 

校舎の近景2

 

鶴田町指定文化財の立札

 

正面玄関の近景

重厚ながら木の温もりが感じられますね。。

 

風格のある格子天井

 

構内に入ってみます。

開館時間は、9:00~16:00、12月~3月は休館しています。

 

鶴田町のマスコットキャラクター「つるりん」がお出迎え。

館内は自由に見学できます。

 

玄関の様子

 

古い卒業記念や学校生活の思い出を伝えるモノクロ写真、

学校標語、新聞記事などが掲示してあります。

 

館内案内図

 

往時の校内見取り図

 

廊下の様子

一直線に伸びる長い廊下に圧倒されます。卒業生たちによれば、
廊下に横一列に並んで、「よーい、どん」と、いっせいに

雑巾掛けをしたことが忘れられないそうです。

 

よく廊下で見かける注意書き。

 

1年生の教室の壁に貼ってあった「水元丸」

 

廊下の壁に子供たちの似顔絵が貼ってあります。

みんな口大きく開けて歌っています。

賑やかな歌声が聴こえてくるようですね。。

ひらひら揺れる紙飾りが何とも可愛らしいですね。。

 

先に体育館(講堂)に入ります。

ステージの様子です。

 

天井を飛んでいるのは、鶴田町のシンボル、丹頂鶴です。

 

館内の様子(入口方向)

此方にも一羽飛んでいます。。

 

天井は高く、櫓のように組木が張り巡らされています。

 

津軽凧を活用した現代アートです。

優しく煌びやかで魅了されました。。

 

体育館(講堂)の入口にも手作りの絵と暖簾のような紙飾りが。

 

紙風船

落ちてきたら

今度は

もっと高く

もっともっと高く

何度でも

打ち上げよう

美しい

願いごとのように

黒田三郎

小生には懐かしい詩です。。

1973年(昭和48年)フォークグループ「赤い鳥」のヒット曲

ですが、TVのCMでも流れていましたね。

優しく切ないメロデイーが印象的でした。。

 

階段の様子

 

青森県の地形図

 

廊下の様子(2階)

2階は会議室、2年~6年生の教室、図書室がありました。

現在は資料室となっています。

 

丹頂資料室

丹頂鶴の美しい姿や生態などを展示してあります。

 

鶴の鳴き合い

 

教室の様子

 

鶴田町で使用されていた古い農機具

 

往時の生活用品、調度品

 

藁で作った草履や長靴

 

2階の端に小さな部屋があります。

 

図書室です。

狭い室内に本棚いっぱい所蔵してあります。

 

当日の催し物会場では陶器が展示してありました。

 

「つるた焼」は地元の伝統的な陶器です。

 

旧水元小学校は、1986年1月5日から12月14日にNHKで放送された

大河ドラマ「いのち」のロケ地となりました。

橋田寿賀子が脚本、主演は三田佳子。

 

校庭の様子

 

水元小学校(2006年閉校)

沿革をみると、

1876年(明治9年)11月15日 廻堰村に校舎を新築し、廻堰小学として開校。
1886年(明治19年)4月 妙堂崎簡易小学校廻堰分校と改称。
1892年(明治25年 小学校令改正により、妙堂崎尋常小学校廻堰分校と改称。
1902年(明治35年)4月 向陽小学校の組合から分離し、水元高等小学校開校。
10月1日 - 校舎落成。
1903年(明治36年)4月1日 開校式挙行。
1936年(昭和11年)4月 校地拡張、平屋校舎を解体し、正面校舎屋内体操場新築着工。
11月 - 新築工事落成。

1987年(昭和62年)全校児童114名。
2006年(平成18年)3月31日 本校と妙堂崎小学校を統合した水元中央小学校開校

により、この日をもって閉校。
2008年(平成20年)7月1日 廃校となった校舎が、町の歴史学習拠点「伝承館」

としてオープン。
1936年(昭和11年)に建築された総ヒバ造りの木造校舎が今も残っていいることは

非常に珍しく貴重なものとして2005年(平成17年)町の文化財に指定されました。

 

折角なので五所川原市にある斜陽館に立ち寄ってみました。

ひときわ目を引く豪邸です。

 

元々は小説家太宰治の生家ですが、現在は太宰治記念館「斜陽館」

として、五所川原市立の施設となっています。

 

館内の様子1

天井が高く梁がトラスに組まれています。

 

館内の様子2

総ヒバ造りで、階下11室278坪、2階8室116坪あります。

 

畳敷きに囲炉裏、梯子のような衝立、大きな壁時計、

すべてがレトロですね。。

 

太宰治誕生の部屋

太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまで

この家で暮らしていました。

 

廊下の様子

部屋が幾つもある割には、廊下は意外と狭かったです。。

 

廊下から見た中庭1

 

廊下から見た中庭2

高級旅館の佇まいです。

 

青森県には、太宰治に所縁のある場所がたくさんあるので、

太宰ファンは一通り足を運ぶそうです。

 

斜陽館

斜陽館は、太宰が生まれる2年前の1907年(明治40年)、

父・津島源右衛門によって建てられました。

庭園など合わせて宅地約680坪ほどの豪邸です。

太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却。

町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館

として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名されました。

和洋折衷・入母屋造りの建物は、米蔵にいたるまで青森ひばが

使用され、どっしりした重厚感が特徴となっています。

明治期の木造建築物としても貴重な建物として、2004年(平成16年)

国の重要文化財に指定されました。