長野県上田市、長野市の廃校休校巡り(2020/08/10) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

上田市は、長野県の東部(東信地方)にある市です。
東信地方および上田地域の中心都市で、長野県内では長野市、

松本市に次ぐ3番目の規模の都市です。
古くは、養蚕業が盛んで、特に明治期においては、日本の主力産業で

あった繭の重要な供給地でした。
なお、現在では県内有数の椎茸の産地と知られています。

 

長野市は、長野県北部(北信地方)に位置する市であり、

同県の県庁所在地、中核市です。
全国47の都道府県庁のうち、最も標高の高い位置に本庁舎があります。
2005年1月に、大岡村・豊野町・戸隠村・鬼無里村を編入し、
2010年1月に上水内郡信州新町、中条村を編入 し、新・長野市が誕生しました。
長野市は盆地に位置し、盆地特有の気候であるため寒暖の差が激しく、

夏は暑く 、冬は寒い気候です。
特に北部は 日本海側気候の豪雪地帯であり寒さの厳しい地域です。

 

今回は、上田市で2校、長野市で3校の計5校となりますが、

すべて木造校舎で懐かしさを感じるものでした。

なお、長野市の廃校休校巡りは、2014年8月以来の6年振りとなります。

前回の記事は⇒ こちらへ

 

上田市の西南に広がる塩田平一帯は、鎌倉幕府の重職であった塩田北条氏が

三代に渡り信濃の一大勢力としてこの地方を統治したことから
「信州の鎌倉」と呼ばれており、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた神社仏閣など、

数多くの文化財が残っています。

山裾に田園が広がる中に、体育館らしき建物が見えました。

近付いてみます。。

 

往時の門柱が残っていますが、木板の表札は、

「さくら国際高等学校」となっています。

玄関の様子

人影もなく静まり返っていました。

 

創立百周年記念碑

旧西塩田小学校の校地であったことが確認できました。

 

傍では二宮尊徳が熱心に書物を読みふけっていました。

 

敷地の南側に進んでみると、寄棟造りの大きな木造校舎が

横たわっています。

 

校舎前の庭は、「すぐり畑」の立て看板があります。

グーズべりーを育てて収穫した実をジャムやゼリーに加工する試みだそうです。

その奥は、樹木に覆われて進むことができませんでした。

 

樹木の間から撮った校舎

手前は板張りですが、玄関から奥の壁面はトタンで補修されているようです。

 

正面玄関の近景

雑草が生い茂っており、こちらでの人の出入りは無さそうです。

ひっそりとした佇まいです。

 

長らく使用されなくなった手洗い場

 

校庭へと進み、裏側から木造校舎を眺めます。

突き出した棟が重厚感、立体感を出していますね。。

 

1916年(大正5年)竣工の木造校舎です。

レトロな木造校舎は、映画『学校の怪談4』(1999年)のロケで

使用されました。

 

時代の年輪を感じるペンキの剥げた斑模様の板壁、木枠の窓、

トランペットスピーカーに郷愁が漂いますね。。

 

木造校舎の奥にモルタル校舎、体育館が並んでいます。

手前のモルタル校舎は、音楽室などの特別教室があった棟です。

 

モルタル校舎の隣に電車が一両見えますね。

 

かつて、上田市の上田駅から別所温泉駅までを結ぶ上田電鉄の路線で、

1928年(昭和3年)5月22日から1986年(昭和61年)9月30日まで使用され

活躍していた車両(モハ5251)です。

戸袋の楕円形の窓がお洒落ですが、「丸窓電車」と呼ばれ親しまれました。

なお、男はつらいよシリーズ 第18作『寅次郎純情詩集』では、この列車に

車寅次郎とさくらが乗車するシーンが登場するそうです。

 

2011年(平成23年)4月16日にさくら国際高等学校へ無償譲渡され

展示されています。

木造校舎と相まってレトロな風景となっています。

 

校庭の様子

 

西塩田小学校(1996年閉校)

沿革をみると、

1873年(明治6年) 昇高学校として開校。

1895年(明治28年)西塩田尋常高等小学校と改称。

1947年(昭和22年) 学制改革により西塩田小学校と改称。

             同時に併設で西塩田中学校が開校。

1958年(昭和33年) 西塩田中学校廃校。

1970年(昭和45年) 上田市立西塩田小学校と改称。
1996年(平成8年) 児童数減少に歯止めがかからず
            近隣の別所小学校との統合に伴い閉校。
一時期は中学校も併設されていたのですね。
1987年(昭和62年)の全校児童は、261名でしたので、それなりに
児童がいたようです。
現在は、通信制のさくら国際高等学校として使用されています。
 

旧西塩田小学校の北方600mほどの場所に、1996年(平成8年)に

新設された塩田西小学校があります。

 

2019年度の全校児童は273名ですが、旧西塩田小学校と旧別所小学校を

統合し新設されたもので、30年前は両校合わせて400名ほどの児童がいた

ことを考えると、少子化は確実に進行しているようです。

 

上田市内の国道143号浦野交差点を入って進みます。

浦里小学校は現役校ですが、伝統と風格のある木造校舎が有名でした。

かつて、正門の奥、二本の松の後方に2棟の木造校舎が建っていましたが、

2012年(平成24年)9月の火災により焼失してしまいました。。

 

焼失する前の校舎です。

2棟の中でも、特にこちらの校舎は1924年(大正13年)の建築で威厳があり、

映画やドラマのロケ地になりました。

 

残念ながら、現在は2本の松が往時を偲ぶばかりです。。

 

校舎を見守ってきた二宮尊徳もさぞかし無念でしょう。。

 

砂利の駐車場に整備された花壇

 

トーテムポールは焼失を免れたようです。。

 

左手奥に玄関と現存校舎が見えます。

 

道路沿いには、唯一、火災を免れた昭和の校舎が残っていますが、

外壁は改修された様子で、サッシ窓に替わっていました。

 

中庭の芝生には、幾つか遊具が置いてあります。

 

校庭から撮った校舎

先ほどの旧西塩田小学校とよく似た造りですね。

 

芝生で覆われているので、シーソーから落ちても大丈夫そうですね。。

 

卒業記念の彫刻作品

制作時期は不明ですが、昭和期のものでしょう。。

 

浦里小学校(現役)

沿革をみると、

1873年(明治19年) 養正学校として開校。

1886年(明治32年) 浦野学校と改称。

1889年(明治35年) 浦里村立浦里尋常小学校と改称。

1947年(昭和22年)  学制改革により、村立浦里小学校と改称。

             同時に併設で浦里中学校開校。

1960年(昭和35年) 浦里中学校は統合により閉校。

1973年(昭和48年) 上田市立浦里小学校と改称。

2012年(平成24年)9月5日 火災により、木造の旧管理棟(旧校舎)と北校舎が全焼。

その後、地元の自治会やPTA関係者らが「浦里小学校を支える市民の会」を設立し、

児童の学習環境を整えるため、支援金の募集を始めたそうです。

校舎や正門から玄関周りが綺麗に整備されていたのは、地元の方々の支えが

あったからでしょうね。。

 

更埴IC下車後、県道70号を西へ進み、信更町吉原地区に入ります。

神社へ通じる道沿いに平屋の校舎が見えました。

 

往時の正門と平屋の体育館(講堂)です。

 

長閑な山間集落に佇む木造体育館は、地区の集会所となっているようです。

 

正門に記された分校跡記念碑

題字の「心のふるさと」からは、

地元を離れた村人たちの望郷の念が伝わってきますね。。

 

斜め方向から撮った体育館

 

かつては、校舎と繋がっていた渡り廊下の一部が集会所の

玄関となっています。

 

体育館の裏側

 

遊具と体育館

 

新しい遊具は、閉校後に設置されたものでしょう。

子どもたちが今でも遊びに来るのでしょうか。。

 

校庭の様子

ゲートボール場となっています。

 

更府小学校吉原分校(1977年閉校)

2014年8月以来6年振りの再訪ですが、特に変わった様子はありませんでした。

前回と同様にゆっくりと時間が流れているようです。。

仁王立ちのように立つシンボルツリーと小さな木造体育館が好対照でした。

 

国道19号から県道475号を北上し次の分校跡へ向かいます。

2010年(平成22年)1月に長野市に合併するまでは、上水内郡(かみみのちぐん)

信州新町だった場所です。

長野市内ですが、起伏に富み枝道の多い場所です。

沿道の避難場所の看板が目印です。

 

バラスを敷いた敷地に平屋と2階建ての建物が並んでいます。

校庭にピンクのボールが転がっていました。

子どもたちが夏休みに遊んだ跡でしょうか。。

 

沿道の消防団倉庫の隣の平屋校舎は樹木に隠れて全貌が

見えませんが、体育館だったそうです。

 

2階建ての民家のような建物が分校舎でした。

屋根の角度や方向がバラバラですが、増改築したものでしょうか。。

 

現在は、峰組公民館として使用されています。

 

校舎の裏側も草木が生い茂り、近付くことができません。

 

校庭の様子

 

新町小学校柳沢分校(1980年閉校)

1955年(昭和30年)創立の分校は、僅か25年で稼働を終えたことになります。

ネットでも柳沢分校については出て来ないので、詳細は不明です。

分校跡を示す石碑も児童たちの卒業作品も見当たりませんでした。

往時はどのくらいの児童が学んでいたのでしょうか。。

 

旧七二会(なにあい)村だった場所は、前回も訪れました。

県道401号を走るのですが、くねくねした林道と変わらず枝道も多く迷路のようです。

 

不安になってきたところで、岩草区の案内図があり安心しました。

岩草分校跡と記されている地点までもう少し掛かりそうです。

 

しばらく走ると公民館と校舎が見えてきました。

 

公民館は、新しく建てられた様子です。

 

目を引くのは重厚な木造校舎です。

逆光で黒く映っていますが、見応えのある立派な校舎です。

 

 

中央に迫り出したのは管理棟でしょうか。

長野県ではよく見かける校舎の構造です。

 

校舎の側面を見ながら校庭へ進みます。

 

校庭から撮った校舎

こちらが表でした。。

 

正面玄関の近景

柱や破風等は白く塗られています。

 

割れた窓から撮った教室

 

校庭と遊具

 

七二会(なにあい)小学校岩草分校(1964年閉校)

山間集落の分校としては大きな校舎です。
七二会小学校には、笹平・五十平・岩草の3分校がありました。

沿革をみると、

1874年(明治7年)岩草、念仏寺2ケ村組合立「14番小学篤励学校」を

岩草性乗寺に開校。
1886年(明治19年) 一村一校制の施行により、今までの3校を廃止、

笹平を本校として尋常小学七二会学校と呼称、五 十平・岩草を支校とする。
1903年(明治36年)七二会尋常高等小学校開校。笹平・五十平・岩草は分教場となる。
1964年(昭和39年)児童数激減のため、岩草分校90年の歴史を惜しまれつつ閉鎖。

閉校となって半世紀以上経過していますが、朽ち果てた様子がないのは、

地元の方々によって大切に保存・管理されているからでしょう。