福島県西会津町の廃校休校巡り(2019/10/18) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

西会津町(にしあいづまち)は、福島県会津地方、

耶麻郡(やまぐん)にある町です。 

県の北西部に位置し、新潟県と県境を接しています。

江戸時代から明治維新期の時代には、阿賀川を利用した舟運と

多くの人が行き交う宿場町であったとされ、越後街道の要衝として

繁栄しました。

 

磐越自動車道、西会津ICにて下車します。

西会津町の廃校休校巡りのスタートです。

町の中心部に位置するJR野沢駅は、磐越西線の簡易委託駅です。

近くには、役場や小・中・高校が、徒歩圏内にあります。

駅名標の両脇の赤べこが愛らしいですね。。

 

ちょうど、喜多方・会津若松方面に向かう普通列車がホームに入ってきました。

 

西会津小学校(現役)

2012年(平成24年)4月 西会津町の5校(野沢、尾野本、群岡、新郷、 

奥川)の小学校が統合し、西会津小学校(野沢小学校舎を転用)がスタートしました。

その後、2015年(平成27年)に移転した新校舎が上の写真です。

旧校舎は改修を施され、西会津町役場庁舎および公民館として活用されています。

西会津小学校は、町で唯一の小学校となりましたが、

2019年(令和1年)度の全校児童は215名です。

1960年(昭和35年)に、野沢小学校だけで853名の児童がいたことを

考えると、町全体として急速に少子化が進んだことが分かります。

 

西会津小学校の南東200mほどの場所にあった尾野本小学校です。

コンクリートブロックの校門と塀が繋がっています。

表札は文字が薄れてやっと読めるくらいですが、塀に貼り付けた

沿革碑の銘板は目新しいものでした。

 

左側の校門には、表札の代わりに閉校記念碑、塀には校歌碑が

貼ってあります。

沿革碑や閉校記念碑は、校舎の前や校庭の隅に建立されている

ものが多いので意外に感じました。

 

校門を抜けると、2階建て鉄筋校舎が校庭に向かって建っています。

 

校舎の全景

 

正面玄関の近景

 

目を引くのは、クラーク博士像です。

校門に近い校舎の前に建っています。

札幌で見たこことがありますが、まさかここでお目にかかるとは

思いませんでした。。

顔はよくみると、マリオのようなユーモラスな顔立ちです。

 

台座の裏面には、

「志を立て 、学び励み社会に役立つ人となることを願い

クラーク博士の像を尾野本小学校児童に贈る」とあります。

地元出身で、1930年(昭和5年)3月に同小学校を卒業された、

新田正夫氏から寄贈されたものでした。

海外渡航歴95回と記してあるのは、世界に見聞を広めたことを

示すものでしょう。。

1990年(平成2年)11月30日建立です。

 

逆光で暗く映ってしまった二宮尊徳像

クラーク博士に主役を奪われたようです。。

 

校庭の隅に並んだ遊具

 

校庭の様子

広い校庭は一面に枯れ草だらけで、長らく放置された状態でした。

 

尾野本小学校(2012年閉校)

尾野本村だった1878年(明治11年)に、野沢小学校より独立して

尾野本小学校として開校しました。

閉校となって7年余りが経過していますが、何かに活用されている

様子もなさそうです。

人影もなく静まり返っていました。

校門の方角を指さし、登校児童たちを励ましてきたクラーク博士も、

寂しそうです。。

 

西会津IC下車後、国道49号を北上、「道の駅にしあいづ」を過ぎて

ほどなく、安座川に沿った道に折れて新潟県境方面へと進みます。

沿道の看板をみて右折します。

地元の方から、分校跡はダーナビレッジになっていると聞いて

いましたが、どこで脇道に入っていいのか分からず、不安に

なりかけたところ、ちょうど案内看板が出ていたので助かりました。

ここから200m、もうすぐです。

 

右折した先は、直線道路になっていますが、前方にお寺(清昌寺)しか

見えません。。

アスファルトはそこで終わっていますが、お寺の左手から奥に

コンクリートの急な坂道が続いており、上り詰めたところに分校跡が

ありました。

 

森の中に姿を現した校舎

 

2階建て木造校舎ですが、玄関のある棟と2階がベージュの

モルタル壁の棟が繋がっています。

屋根の高さも微妙に違いますね。。

壁に立て掛けたアルミの梯子、建築資材やブルーシート等が

見られますが、校舎を補修されているところでしょうか。。

窓越しには、ハンガーや物干しロープが見えますので、

住人がいるようですが、人の姿や声もなく静まり返っています。

 

玄関の近景

家族で住まわれているのでしょうか。。

子ども用自転車や洗濯かごが無造作に置いてありました。

 

玄関の戸口に置かれた手作りの表札

 

校庭の様子

木製のベンチにペットボトルが残っていましたので、

さきほどまでここで過ごしていた感じです。

遠方には洗濯した衣類が干してありました。

 

校庭の隅に残るブランコ

 

野沢小学校安座(あざ)分校(1978年閉校)

分校跡を示す記念碑や石碑も見受けられませんでした。

沿革をみると、

1878年(明治11年)野沢小学校安座分教場を開設

1978年(昭和53年)閉校

その後、自然体験が出来る宿泊施設として転用される。

2015年(平成27年)「にしあいづ自遊楽校」としてキャンプ、

工作、川遊びの場として活用される。

2016年(平成28年)4月Dana Village(ダーナビレッジ)を設立。

現在に至る。

健康回復とじぶん発見をテーマにした、体験型の宿泊施設として

利用されており、親子でオーガニック農業体験、ヨガなどを

楽しむことができるそうです。

さきほど見た雑然とした光景は、家族でキャンプ中だったからでしょう。。

 

国道49号に戻り、北上します。

下野尻地区で県道338号に折れて阿賀川方面に行く途中に、

閉校となった小学校があります。

正門の表札も崩した字体ですが、校名を確認できました。

 

曇り空に建つ灰色の鉄筋校舎は、殺風景で趣もありません。

 

手前の体育館とは渡り廊下で繋がっていました。

 

重厚な造りの玄関

 

校章(少しピンボケしました。。)

 

これは何のマスコットでしょうか。。

気になって後で調べたところ、

「キビタン」という名のマスコットで、県鳥のキビタキというお腹が

黄色い夏鳥がモデルとなっているようです。

1995年(平成7年)に福島県で開催された「第50回国民体育大会(ふくしま国体)」の

マスコットとして一般公募により誕生しました。

小学校も国体の会場となったのでしょう。。

 

校庭側から撮った校舎

おびただしい数のコンクリート管が置いてありました。

聞けば、防災無線用の柱に使用するものだそうです。

 

ブロック塀の投的板

 

閉校記念の校歌碑

一、白くもなびき 風かおる

群がる丘の ただなかに~

 

沿革碑

1873年(明治6年)創立

2012年(平成24年)閉校

群岡小学校には、屋敷(後に独立、再統合)、杉山、白坂、宝川、

徳沢の5分校があったようです。

 

群岡(むらおか)小学校(2012年閉校)

1987年(昭和62年)には、99名の児童が在籍していましたが、

西会津小学校への統合に伴い閉校となりました。

訪れた日は、防災無線工事の現場事務所として使用されており、

長居することも憚れ、足早に引き上げました。。

 

群岡小学校から引き続き県道338号を東へ進みます。

磐越西線、阿賀川を跨いで新郷笹川地区に入ると、

往時の小学校と中学校が同じ敷地に残っています。

小学校の表札は、上部に潰れて穴が開いていますが、

どうしたのでしょう。。

ちなみに、門柱越しに見える木造校舎は、中学校です。

 

小学校は、左手奥の高台に建っている鉄筋校舎です。

体育館とはL字型の配置です。

 

閉校記念碑

沿革を抜粋すると、

1873年(明治6年) 吉田小学校の分校として開校
1947年(昭和22年) 新郷村立新郷小学校と改称
1954年(昭和29年) 西会津町立新郷小学校と改称
2012年(平成24年)3月 閉校
 

新郷(しんごう)小学校(2012年閉校)

西会津小学校への統合に伴い閉校となりましたが、

現在は、町の歴史・民俗資料の展示・保存施設となっています。

 

一対の校門の片方には、中学校の表札が埋め込んでありました。

かなり文字が薄れてきており、やっと読める程度です。

門標の枠は、緑色の苔で縁取られており年季が感じられます。

 

目を引くのは、美しい木造校舎です。

 

落ち着いた紫色を基調にした校舎から品格が漂います。

 

正面玄関の近景

 

木板の表札は、「西会津国際芸術村」とあります。

閉校後はリニューアルを経て、芸術を通した国際交流や、

都市と地方を結ぶ交流の拠点として活用されています。

 

玄関内部の様子

一般に開放されているようです。

玄関に入り、構内を見学します。

左手に校長室の室札が掛かっています。

 

アート作品でしょうか。。

綺麗ですね。。

秋風に舞い散るもみじが校舎を包みこんでいます。

 

 

高く掲げた校歌

一、飯豊の嶺に 光る雪

  泉と清く 涌くこころ

  父祖の歴史を胸に秘め

  集うよ われら

  ああ 母校 新郷中学校

 

かつて使用していたワラ蓑

民具資料として展示してありました。

 

廊下の様子

放送室や職員室の室札が見えました。

 

階段(2階から撮った写真)

 

2階廊下の様子

 

教室の一部は、芸術家のアトリエとして使用されています。

多くの作品が壁にもたれかけるように置かれていました。

 

閉校記念碑

沿革には、
1947年(昭和22年) 新郷村立新郷中学校創立
1951年(昭和26年) 校舎建築
1954年(昭和29年) 西会津町立新郷中学校になる
2002年(平成14年) 閉校

 

新郷(しんごう)中学校(2012年閉校)

周りの緑に調和した美しい木造校舎です。

築70年になろう校舎は、リニューアルはされていますが、

往時の面影を残しており良好に保たれています。

2004年(平成16年) 西会津国際芸術村として活用され

現在に至っています。

構内は、アート作品の展示、イベント、ワークショップ、

木工房などのほか、カフェもあります。

1987年(昭和62年)の全校生徒は28名でした。

西会津中学校への統合に伴い、65年の歴史に幕を下ろしましたが、

第二の人生を堂々と送っている姿は、村人たちの誇りや励みと

なっていることでしょう。。

 

県道338号を引き返し、国道49号を北上、車トンネルを抜けてほどなく、

脇道に折れて鬼光頭川(きこうずがわ)に沿って進みます。

屋敷集落の丘の上に、森林に埋もれるように閉校舎がひっそりと
佇んでいます。

左から体育館、校舎、講堂の順に3棟並んでいました。

目印となるのが、入口に高く聳え立つ携帯基地局の鉄塔です。

その巨大な鉄塔は、古い木造校舎と好対照に現代の情報通信社会を

象徴していました。

 

校舎の全景

後方のピンクの窓枠の建物が体育館です。

 

正面玄関の近景

ススキや蔓が周りを覆っており、長らく人の出入りもない様子です。

 

正面玄関(斜めから撮った写真)

最後は、農作業用の物置として使用されていたのでしょうか。

刈り取った枯草の束やブルーシートが押し込んであります。

 

廊下の様子

床が抜けて老朽化が進んでいます。

手前に調理室、奥に放送室の室札が見えました。

 

割れた窓ガラスから撮った講堂の内部です。

磐越道車道黒森山トンネル 祝貫通の横断幕が掛かったまま

残っています。

黒森山トンネルは、福島県西会津町~新潟県阿賀町の県境を

結ぶトンネルです。(延長2.8㎞)

日付は1997年(平成7年)11月30日とあります。

建設会社の現場事務所として使用されていたようですね。

 

赤い幕のステージや壁の掲示物に小学校の思い出が甦ります。

 

校歌のプレート

飯豊(いいで)の雪や鬼光頭川(きこうずがわ)の清流は、

地元では欠かせない故郷の風景なのでしょうね。。

 

「真心」と刻んだレリーフ

1978年(昭和53年)度の卒業記念制作です。

 

屋敷小学校(1990年閉校)

集落の外れ、丘の上に佇む、廃墟感が漂う木造校舎です。

学校跡記念碑や遊具類も見当たりませんでした。

沿革をみると、

1888年(明治21年)群岡小学校が屋敷分教場を開設する。
1966年(昭和41年)屋敷小学校が群岡小学校から分かれて独立する。
1990年(平成2年)屋敷小学校が4月から群岡小学校へ統合。

一旦独立を果たしますが、再度本校に統合されてしまったようですね。。

1987年(昭和62年)の全校児童は、わずか10名でした。

 

国道49号に戻り北上、県境前の県道384号を経て国道459号を進み、

奥川地区に入ります。

郵便局付近の沿道に学校跡らしき建物を見て立ち寄りました。

季節柄、コスモスとセイタカアワダチソウの競演が見られました。

 

広い敷地に校門と体育館だけ残っています。

緑色の重機は、除雪用でしょうか。。

 

ポツンと建つ校門に、ヒビの入った表札

 

錆びたトタン屋根の体育館

 

雑草だらけの校庭

 

閉校記念碑

校歌と旧校歌の両方が記されていました。

 

セイタカアワダチソウに遮られた裏面の沿革碑

 

奥川中学校(2002年閉校)

調べたところ、校舎は取り壊されて現存せず、体育館のみ

指定避難所として残っています。

不自然に広すぎると感じた敷地は、かつて校舎が建っていたため

でした。。

2002年(平成14年)、残っていた奥川、新郷、群岡の3校が

西会津町中学校への統合により閉校となりました。

1987年(昭和62年)の全校生徒は、43名でした。 

 

奥川中学校から国道459号を500mほど進んだ場所に、小学校跡が

あります。

 

こちらの表札もヒビが入っていました。

(中学校ほどではないですが。。)

 

小学校は3棟が残っており、左から旧校舎、新校舎、体育館です。

3棟の中では、体育館が最も新しく1975年(昭和50年)完成です。

 

旧校舎の全景

1960年(昭和35年)5月完成です。

 

役目を終えた2階建ての木造校舎は倉庫となっているようです。

「優しい心 生きる力」

壁の標語が印象的です。

 

新校舎は、鉄筋校舎。

こちらも2階建てです。1973年(昭和48年)3月完成です。

校舎前の植栽が邪魔をして全景がスッキリとしません。

特に、正面玄関は樹木が塞いでいるため、まっすぐ入れません。

 

なので、横から入っていきます。。

 

閉校後は、「奥川みらい交流館」という名の公民館となっています。

 

公民館の一部は、西会津町役場 奥川支所として使用されています。

 

校歌のレリーフ

1984年(昭和59年)度の卒業記念制作です。

 

木製のカレンダー

1990年(平成2年)度の卒業記念制作です。

カレンダーの周りは、学校生活の思い出の数々が描かれています。

 

校舎を描いたちぎり絵は、1980年(昭和55年)度の卒業記念制作です。

さきほど見た建物の配置と同じですね。。

 

「愛と希望と力」

奥川小学校 父母と教師の会によって建立された石碑です。

 

閉校記念碑と校歌

一、山は茂りて 水清く

自然の恵み 豊かにて

人の心も のどかなる

ここ奥川ぞ 平和郷

 

裏面の沿革碑

1873年(明治6年)創立
奥川小学校には、飯根(いいね)、大綱木(おおつなぎ)、高陽根(たかやね)

弥平四郎(やへいしろう)、杉山分教場があったようです。

 

奥川小学校(2012年閉校)

西会津小学校への統合に伴い閉校となりました。

新校舎は、奥川みらい交流館および西会津町奥川支所として

第二の人生を歩んでいます。

1987年(昭和62年)の全校児童は80名でした。

 

国道459号を引き続き東へ進んでいくと、案内標識が見えたので、

右折して大舟沢(おおふなざわ)集落へ向かいます。

 

集落の高台に白い壁の建物が見えます。

 

近付いてみます。

2階建てのプレハブ風の建物です。

 

学校跡を示す石碑等見当たりませんが、窓越しに内部を覗くと

「奥川小学校大舟沢季節分校」とありましたので、間違いないようです。

 

校庭からみた集落の様子

 

奥川小学校大舟沢季節分校(1985年閉校)

限界集落に残る分校ですが、思った以上に新しめの外観で、

老朽化した感じはありません。

改修はされていると思われますが、現在は集会所として使用されて

いるのでしょう。。

積雪の多い冬季の間、集落は孤立してしまいますが、

ここで学んでいた児童たちはどうしているのでしょう。。

奥川小学校には、町の最北部に弥平四郎季節分校がありましたが、

一足早く1978年に閉校となっています。

こちらも校舎が現存していますが、あまりにも遠方に位置しているため

訪れませんでした。