新潟県長岡市の廃校休校巡り(2019/10/14) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

長岡市は、新潟県の中南部(中越地方)に位置する市です。

江戸時代には長岡藩の城下町として栄えました。

2006年(平成18年)1月1日 栃尾市・三島郡 寺泊町・与板町・和島村を編入し、
2010年(平成22年)3月31日 北魚沼郡川口町を編入し、市域を拡大しました。

花火の街でもあり、市の中心を流れる信濃川では、毎年8月1日から3日に

長岡まつり(うち大花火大会は2、3日)が開かれ、多くの見物客でに賑わいます。

世界的に見ても珍しい程の豪雪地帯であり、1981年(昭和56年)1月21日の

212cmなど過去に記録的な豪雪を何度も経験しています。

 

今回は、主として長岡市東部、旧栃尾市内を訪れました。

北陸自動車道経由、関越自動車道、長岡IC下車後、国道8号(長岡バイパス)、

そして国道351号を東へ進みます。

このあたりはかつて栃尾市だったところです。

栃尾市は、2006年(平成18年)長岡市に編入されて消滅しましたが、
豊富な湧水や「栃尾のあぶらげ」(油揚げ)、上杉謙信ゆかりの地として

知られています。

県道317号に折れて進んだ入塩川地区に閉校跡があります。

 

往時の門標と創立百周年記念碑

 

残念ながら、校舎は現存せず更地となっていました。

この数年前に解体されたようです。。

周りの道路から見ても、校舎が建っていた敷地は、

ポッカリと穴が開いたようになっていました。

 

学校跡碑

「明道の子ら ここに学ぶ」

台座は校歌碑となています。

往時のサイトをみると、この石碑からみて左側に2階建て木造校舎が、

正面奥に木造体育館が建っていました。

先に体育館が積雪により崩壊してからは、校舎のみ残存していましたが、

それも解体されていました。

 

裏面の沿革碑

1874年(明治7年)明道校として創立

1892年(明治25年)塩川尋常小学校と改称

1947年(昭和22年)塩川小学校と改称

1953年(昭和28年)現在地に校舎移転、竣工

 

塩川小学校(2001年閉校)

木造校舎だけでも残っているかと思い、訪ねてみましたが、

上述のとおり、すべて解体され更地となっていました。。

2001年(平成13年)近隣の上塩小学校への統合に伴い

127年の歴史に幕を下ろしました。

校歌には、明道の子の姿が刻まれていました。

「はれやかに明るい道をすすみます
われらの われらの 塩川小学校」
 

 

 

旧栃尾市中心部から西谷川に沿って県道9号を南下します。

北荷頃の交差点から川向こうに校舎らしき建物が見えました。

 

橋を渡り近付いて行きます。

下見板張りに縦桟を入れる格子柄の外壁は、耐久性があり

雪国でよく見受けられますね。。

奥に芝生の校庭が広がっています。

体育館のようですが、年季を感じる建物です。

 

さきほどの道路沿いにもありましたが、側面にも入口がありました。

 

窓には雪囲い板がはめてあり、内部は暗くて見えませんでした。

2階の窓ガラスは一部割れていますが、これも積雪や風圧によるものでしょう。。

 

川沿い裏側のスペースは花壇となっています。

 

壁に掛けた標語は、各国の挨拶ことば

 

校庭に建つ小学校跡碑

校歌を記した銘板には、地元の豊かな自然が詠われていました。

一、守門をめぐる山々の 緑のめぐみ美しき~

二、西谷川の水清く 澄めるほとりのこの里に~

荷頃小学校(2006年閉校)

新潟県最古と言われた木造校舎は、解体されて現存せず、

体育館のみ残っています。

1884年(明治17年)開校

1987年(昭和62年)の全校児童は108名でしたが、児童の減少により

2006年(平成18年)栃尾南小学校への統合に伴い閉校となりました。

2004年(平成16年)の水害や中越地震に耐えてきた木造体育館は

今後も存続し続けることでしょう。。

 

北荷頃交差点から県道24号を南下、県道57号と分岐する中集落に

残る閉校舎です。

畑の奥に、青い蒲鉾屋根の体育館と鉄筋校舎がL字型に建っています。

 

長岡市に替わっている門標は、2006年1月1日以降の新しいものです。

 

正門に近い玄関は、校舎の横に突き出しています。

 

どんより曇った空に、灰色の校舎も重い空気に包まれます。

校舎の奥は、庭の樹木に隠れ暗い雰囲気です。

 

校庭に周ると校舎はスッキリとした感じに変わります。

体育館は、校舎よりも目新しく見えました。

校庭の遊具

 

似顔絵を描いたモニュメント

卒業記念制作でしょう。。

校舎の前の庭に建つ標柱は、4mまで目盛りの付いた積雪計です。

雪国ならではの冬場の厳しさが伝わってきます。。

 

小学校跡碑

 

裏面の沿革をみると、

1972年(昭和47年)開校、それほど歴史は古くはありません。

 

西谷(にしだに)小学校(2015年閉校)

開校時には9クラス103名の児童が在籍してたようですが、

1987年(昭和62年)は43名、

2004年(平成16年)は28名、

過疎少子化に加え中越地震の影響などにより

閉校時はわずか8名でした。

 

県道57号を南下し杜々の森名水公園方面に進んでいくと、

昨年3月に閉校となった校舎あります。

門標もそのまま残っています。

 

1873年(明治6年)創立、

1973年(昭和48年)創立百周年記念事業として

卒業生及び学区民の寄付により建立された校門です。

 

アスファルトの敷かれた導線の奥に佇む木造校舎

 

左側が校舎、右側が講堂(体育館)のようです。

 

1階の窓は雪囲い、2階はサッシ窓で締め切られています。

 

青い非常階段、屋根の破風も青のトタン張りです。

 

校舎の裏側

 

驚いたのは、校庭に鳥居が建っていたことです。

吉野神社と呼ばれ、、中越地震で倒れて2006年(平成18年)に

再建されたそうです。

 

小学校跡記念碑

校歌もなかなか雄大で感動的ですね。。

一、清く豊かな杜々水も~(中略)

やがては着こう 大海に

二、風吹くとてもこの庭の杉は~(中略)

いつかはとどこう 大空に

三、陽の照るごとに 師と友が

力を合わせむつまじく

教えの道に智をみがき

やがてはなろう 世の人に

 

校庭が参道のようになっています。。

往時の写真をみると、閉校前から鳥居や社殿があったのですが、

運動会などで邪魔にはならなかったのでしょうか。。

由来は分かりませんが、神社の寺子屋が発祥だとすれば、

境内に校舎が建っているのも頷けますね。。

 

校庭の社殿と遊具

 

中野俣小学校(2018年閉校)

1958年(昭和28年)築の木造校舎と、1950年(昭和25年)築の体育館からは、

懐かしさと温もりが伝わってきます。

1987年(昭和62年)の全校児童は53名でしたが、

最後の児童は、わずか9名(内卒業生は2名)でした。

閉校記念式典には、地域住民や卒業生、旧教職員などが集まり、
9人の全校児童が、地域の伝統芸能「広大寺」の踊りや、学校生活の

思い出の呼び掛け、合唱を披露して幕を閉じたそうです。

 

県道57号を引き返す途中で、脇道に折れて国道290号に出ます。

 

バス停の寒沢(かんざわ)を確認して山道に入ります。

 

長岡市や魚沼市はクマが出没し、作物を荒らしたり、村人に危害を

加えたりすると聞いていましたが、実際にこのような看板を

目の当たりにすると、不安と恐怖を覚えますね。。

周囲を注意深く見渡しながら歩を進めます。

 

畑の向こうの森の中に校舎らしき建物が見えました。

集落には民家が点在していますが、校舎の周りは荒れ果て

ススキや葛が来る者を拒むかのように群生しています。

およそ校庭とは呼べないほど荒廃した空き地に、

廃墟と化した木造校舎がひっそりと佇んでいます。

 

正面玄関の近景

長らく放置されているのでしょう。。

葛のツルが繁茂し、屋根や壁に絡んでいます。

葛のツルは冬になっても枯れずに越冬し翌年成長し続けるので

とても生命力が強い雑草です。

 

沿道に校門や石碑が並べてあります。

 

門標をみると、旧栃尾市の時に閉校したようです。

 

学び舎の跡を刻んだ石碑

創立1963年4月

閉校2001年3月

38年の短い歴史に終止符を打ちました。

 

裏面の校歌碑

一、守門の山を東に

希望はるけき わが里よ~

二、夕日にはゆる弥彦の

希望にみちて わが友よ~

 

最後の生徒の名前を記した記念碑?

 

大きな円筒形のポリ容器は廃棄物ではなくて、

1999年(平成11年)度の卒業生によって寄贈されたもののようです。

タイムカプセル? 何が入っているのでしょう。。

クマの隠れ家にならなければよいのですが。。

 

入東小学校(2001年閉校)

1963年創立時に建てた校舎にしては、かなり老朽化していると感じました。

後日調べたところ、校舎は1960(昭和35)年に廃校になった入東谷中学校の

校舎を移築したものでした。

児童減少により、2001(平成13)年に東谷小学校への統合に伴い閉校となりました。

1987年(昭和62年)の全校児童は53名でした。

冬になれば、この校舎も集落もすべて雪に覆われるのでしょうね。。

 

国道290号に戻り、魚沼市方面に南下します。

栗山沢地区に差し掛かり、アスファルトの坂道を下りていく途中、

前方に校舎らしき建物を見付けました。

 

薄いピンク系のこじんまりとした校舎です。
校舎は崖の下に建っており、沿道から2階の玄関に渡る橋が

取り付けてあります。

積雪が多い冬は、下に降りることが難しいのでこのような構造に

なっているのでしょう。。

 

柱の銘板で「栗山沢小学校」と確認できました。

 

校舎の裏側は、樹木や雑草に隠れて見えません。。

 

下に降りると稲を刈った後の田んぼがありました。

付近に民家もない山に囲まれた場所ですが、細々ながら耕作のため

来る村人がいるのでしょう。。

 

昨夜から降り続いた雨のため、校舎の周りは湿地となっています。

1階は雪囲いの板が施してありました。

 

雪の重みで曲がった遊具

 

学び舎の跡碑

 

裏面の校歌碑

校歌は三番まであるのですが、一番だけ刻まれています。

光のあした さわやかに

守門に続く 石峠

麓に高く 輝くは

栗山沢の 学び舎ぞ

 

栗山沢小学校(1997年閉校)

国道沿いですが、魚沼市と境を接する秘境ともいえる、雪深い場所に

ポツンと建つ校舎です。

分校のようなこじんまりとした校舎で、パステルピンクを基調とした

外観が印象的です。

1876年(明治9年)創立

1987年(昭和62年)の全校児童は、わずか5名。

最も少ない時期は3名でした。

1997年(平成19年)東谷小学校への統合に伴い、121年の歴史に

幕を閉じました。

現在は、限界集落で子どもは一人もいないようです。