鳥取県岩美町、国府町の廃校休校巡り(2019/04/28) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

岩美町(いわみちょう)は、日本の鳥取県最北端に位置し、岩美郡に

属する町です。

町の中央を蒲生川が流れ、日本海に面する東西およそ15kmの
リアス式海岸は浦富海岸と呼ばれ景勝地となっています。
 
国府町(こくふちょう)も、岩美郡に属していた町ですが、
2004年11月1日に鳥取市に編入され、かつての町域は鳥取市国府町と
なっています。
天平時代に因幡国の国庁が置かれて、政治と経済の中心地として
栄えた歴史を持っています。
 
岩美町、国府町ともに2011年~2012年に訪れておりますが、
廃校舎が同じ姿でに残っているか気になり、バイクを走らせました。
ちなみに、前回の記事は、
鳥取県若桜町、国府町、岩美町の廃校休校巡り(2011/09/24)
岡山県美作市、鳥取県智頭町・岩美町の廃校休校巡り(2012/05/27)
 
国道9号を京都方面に進み旧岩美町に入ると、岩井温泉街への
脇道に入ります。バス停も確認できました。
岩井温泉は、1300年の歴史があるとされ、「湯かむり」という独特の
入浴法が伝わる温泉地です。
「湯かむり」とは、頭に手ぬぐいをのせ、湯かむり唄を歌いながら
柄杓で湯をかむるという風習です。
 
バス停から田んぼの向こう、樹木に隠れるように校舎らしき建物が
見えます。
 
古い校舎ですが、付近の整備も長らくされていません。
森林に埋もれんばかりです。。
 
沿道から校舎へのスロープをゆっくり進みます。
7年ぶりに目の当たりにした古い木造校舎は何も変わっていませんでした。
 
1982年(明治25年)築の鳥取県最古の擬洋風建築です。
 
木枠の窓、下見板張りの外壁にはツタが絡まっています。
玄関横には、格納用のシャッターが取り付けられており、
倉庫として使用されていた様子です。
 
 
入母屋屋根の2階まで伸びた玄関ポーチは、上部にガラス張のベランダ、
紋章のような彫刻に蛇腹と凝った造りとなっています。
この部分が最も見応えがありますね。。
 
元岩井小学校舎の解説板
 
県民の建物100選の記念碑
 
校舎の裏側
すでに廃墟と化しています。
元岩井小学校(1917年閉校)
明治期の面影を残す木造校舎です。
内部は改造されていますが、元々は1階、2階共に片廊下形式で
それぞれ教室が2つづと校長室、職員室が配されていました。
1917年(大正6年)に校舎としての役目を終えています。
その後は、村役場や映画館、民間工場などに利用されました。
明治時代に建てられた洋風学校建築としては県内唯一の遺構として
貴重な存在で1975年(昭和50年)に若美町指定文化財に指定されています。
全体的に老朽化しており、特に校舎裏は荒廃が酷いです。
指定文化財として保存していくためには、補修が必要と思われます。
 
岩井温泉を後にして国道9号を西へ進みます。
JR山陰本線を跨いで本庄地区に着きました。
往時の門標は確認できましたが。。
 
遠方に体育館が見えますが、校庭は公園として整備され遊具が
設置してあります。
肝心の木造校舎は無くなっていました。。
 
以前は芝生の校庭に美しい2階建て木造校舎が建っていたのですが。。↑↑
(2011年9月24日撮影)
1952年(昭和27年)築の木造校舎が青空と緑の芝生に映えて、
小生が魅了された校舎の一つだったのです。。
 
遊具の傍で赤いディーゼル列車を見詰める幼児
 
小学校跡碑
 
創立百周年記念碑
 
「仲よし」と刻んだ石碑とお地蔵さんのような石像が4体立っていました。。
本庄小学校(2001年閉校)
閉校後も「いわみ工芸村」と称して陶芸、絵画、木工、染め付け、手織りなどの
体験教室や工芸品の展示を行っていましたが閉鎖している様子です。
その後、障害者支援施設の事務所として利用されてきましたが、
校舎は耐震基準を満たさず、対策工事に多額の費用が
かかるうえ、老朽化による雨漏りなどの修繕が追いつかなくなり、
やむなく取り壊すことになったそうです。
2017年6月3日には、お別れ会が催され、地元の方々が往時の卒業写真を
懐かしみ、思い出いっぱいの校舎に別れを告げました。
現在、跡地には子育て支援センターが建っています。
 
国道9号から県道37号に折れて南下、県道197号との分岐点、
院内地区に入ります。
往時の門柱を確認しました。
 
芝生の校庭、サッカーゴールの左手に校舎と体育館、右手に平屋の
建物が見えますが、校舎ではないようです。
 
校舎と体育館
 
校舎の全景
鉄筋コンクリート3階建ての重厚な校舎ですが、青空に映えて綺麗です。。
 
窓の上に突き出たブロックの庇が特徴です。
 
正面玄関の近景
閉校後は「小田交流館」として利用されているようです。
 
体育館の全景
 
館内の様子
シートが敷かれて沢山のパイプ椅子が壁にもたれています。
 
ステージにピンクの吊り飾りや花瓶、音響機器も見えますが、
聞けば翌日に地域の敬老会が催されるとのこと。
準備万端ですね。
 
当日は、校歌も斉唱されるのでしょうか。。
 
綺麗に手入れされた校庭
奥の平屋の建物が気になりますが。。
 
「小田地区基幹集落センター」という公共施設です。
やはり学校とは別の施設でした。。
 
小学校跡碑
 
沿革碑
1874年(明治7年)開校
2001年(平成13年)近隣の本庄・岩井・蒲生小学校とともに
新設の岩美南小学校への統合により閉校
 
二上中学校跡碑
かつて中学校も併設されていたのですね。。
沿革を調べたところ、
1947年(昭和22年)小田村立二上中学校開校
1979年(昭和54年)岩美中学校への統合に伴い廃校
校名は、近隣の福部町との境にある二上山に由来しています。
二上山は、中世には二上山城が築かれ、因幡国守護の山名氏の
本拠地だったそうです。
 
体育館の前に建つポール
よく見ると、倉吉48㎞、米子92km、鳥取10㎞など近隣都市名と距離を
を書いた札が付けてあります。
その向きは各都市のある方角を示しています。
 
台座に掲げた看板
約1年前に再生完了したとのこと、台風などで傷んでいたのを補修したのでしょう。
 
「希望の塔」の記念碑
1978年(昭和53年)度卒業記念作品です。
 
小田小学校(2001年閉校)
2011年以来の再訪でしたが、8年間のブランクを感じないほど
綺麗に保たれていました。
地域の方々に愛され、交流拠点として活用されていくことでしょう。
1987年(昭和62年)の全校児童は82名でした。
 
引き続き県道37号を南下し国府町に入ります。
代掻き前の田起こしした土壌、鮮やかな新緑の山肌を眺めながら
走ります。
 
大茅地区に閉校となった木造校舎が残っています。
車が数台停まっていました。
 
正面玄関の近景
さきほどの小田小学校と同様、こちらも敬老会が催されるようです。
紅白の横断幕が設営されています。
 
前回の訪問時と変わらず、途中で切られた松の木は
生き延びていました。
 
校舎裏の風景
表側よりも木造校舎の趣がありますね。。
 
校舎の側面
細い壁板が隙間なく打ち付けられて整然としています。
 
校庭の様子
人影もなく静まり返っていました。
 
錆びた朝礼台
 
閉校記念碑を探しましたが、見受けられません。
さきほどの松の木の下に、年季の入った石碑だけ残っていました。
1967年(昭和42年)全国学校給食優良校として文部大臣から
表彰を受けたことを記念する石碑でした。
 
大茅小学校(2002年閉校)
沿革をみると、
1873年(明治6年) 栃本小学校開校。
1892年(明治25年)大茅尋常小学校と改称。
1947年(昭和22年)学制改革により大茅村立大茅小学校と改称。
1952年(昭和27年)大茅村・成器村が合併し大成村発足に伴い大成村立大茅小学校と改称。
1957年(昭和32年)大成村・宇倍野村が合併し国府町発足に伴い国府町立大茅小学校と改称。
2002年(平成14年)3月31日 閉校。
2009年(平成17年) 校舎は改修され「おおかや交流館」となる。
1987年(昭和62年)の全校児童は36名でした。
 
大茅小学校を後にして、県道31号を南下します。
次の目的地の案内看板をみて進みます。
 
往時の門柱をみて敷地に入ります。
 
木造校舎と体育館です。
校庭の一部はアスファルトが敷かれて駐車場となっています。
 
体育館に至るまでアスファルトの動線が伸びていました。
 
こちらも8年ぶりの再訪ですが、相変わらず美しい木造校舎です。。
 
正面玄関の近景
 
玄関の表札(右側)
 
玄関の表札(左側)
絵画・イラスト作家が主宰する「アトリエ小学校」として
使用されています。
 
戸口にはレトロな丸ポストが立っています。
往時から教材用として置いていたものでしょう。。
 
玄関のインターホンを押します。
独特の添え書きは、芸術家の感性でしょうか。。
 
福田さんという主宰者の方が出て来られたので、挨拶をして
構内を見学させていただきました。
似顔絵ギャラリー展と称して、数々のイラストやご自身が取材を受けた
新聞記事の切抜きが所狭しと展示されています。
 
独特のダジャレを交えた似顔絵のイラスト
 
玄関入るやいなや、すべての壁はご自身の作品で埋め尽くされています。
 
3日後は5月1日、「令和」の始まりということもあって、
新元号を書いた作品も交っています。
 
廊下も作品の展示会場になっています。
 
かつての図書室は談話・喫茶室となっていました。
 
室内には、木製の四角い机や椅子が整然と置いてありましたが、
往時の児童が使用していたものでしょう。。
イラストを鑑賞しながら、コーヒーを味わうのもよいでしょう。。
 
2階への階段
 
ご自身の代表作のひとつだそうです。「うつぎ咲くころ」
うつぎ(空木)は5月から6月にかけて咲く白い花です。
地元の渓流の美しい風景や岩陰に咲いた清楚な花が
見事なタッチで描かれていますね。。
 
ご案内頂いた主宰者の福田さんのプロフィールが貼ってありました。
東京で各種雑誌・単行本等のイラストやデザインを手掛けておられましたが、
2000年(平成12年)出身地の母校に戻られて、アトリエ小学校を
主宰されています。
 
これは、画家の作品ではありません。。
1986年(昭和61年)度の卒業記念作品「なかま」です。
サッカーボールを追いかける児童らが躍動的に描かれたレリーフです。
9人の仲間は今どうしているのでしょうね。。
 
小学校跡碑
 
大成中学校跡碑
成器小学校地に併設されていましたが、校舎は現存していません。
1980年(昭和55年)国府中学校への統合に伴い閉校となりました。
 
草むらに現れた似顔絵のレリーフ
制作年度は分かりませんが、これも卒業記念作品でしょう。
 
庭先にドラム缶のような大きな筒が。。
大砲のように台座に鎮座しています。
 
これも芸術家のオブジェかと思いましたが、成器小学校創立百周年の
記念カプセルです。
1973年12月5日建之
2023年12月5日開之
50年後とは、長い年数を設定したものですが、カプセルを開く頃には、
みんな還暦を過ぎていることでしょう。。
 
校庭の様子
遠方に鯉のぼりが垂れ下がっていました。
 
成器小学校(2002年閉校)
沿革をみると、
1873年(明治6年)中河原小学校、上船小学校創立。
1895年(明治28年) 成器尋常小学校と改称。
1947年(昭和22年) 学制改革により成器村立成器小学校と改称。
2002年(平成14年)3月31日  谷小学校・大茅小学校と統合し
国府東小学校開校に伴い閉校。
閉校後、殿ダム工事事務所や作業員宿泊所が入居していましたが
2012年4月に退去してからは、「アトリエ小学校」絵画展示ギャラリー、
喫茶室として活用されています。
主宰者の福田さんの話では、地元の活性化のために頑張っているが、
過疎少子化が進行しており、近い将来、この故郷の地も限界集落から
無人集落になってしまうのではと心配されていました。