島根半島の廃校休校巡り(2019/05/03):松江市編 | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

前回に引き続き、島根半島の廃校休校巡りですが、

(前回の出雲市編はこちらへ

今回は松江市編となります。

松江市は島根県の東部に位置する県庁所在地です。

2005年(平成17年)3月31日、 松江市・八束郡(やつかぐん)鹿島町

・島根町・美保関町・八雲村・玉湯町・宍道町・八束町の1市6町1村が

新設合併され、新・松江市となりました。

また、2011年(平成23年)8月1日、八束郡東出雲町を編入合併して

市域を拡大しました。

松江市は、島根県と鳥取県にまたがる湖・中海や、日本百景にも

選ばれている宍道湖(しんじこ)に囲まれた「水の都」です。

宍道湖に沈む夕日は日本一美しいとも言われています。


松江市編で訪れたのは上図の8校となります。

 

旧鹿島町沿岸の風景

鹿島町は2005年(平成17年)に松江市に合併しましたが、

島根原発がある町です。

 

日本海の朝は穏やかでした。。

白波も立たず紺碧の海原が広がっています。

 

松江市内から県道37号を北上し、旧八束郡鹿島町恵曇(えとも)へ向かいます。

海岸線を進み片句(かたく)集落までやって来ました。

島根半島北西部は、急斜面の山が海に迫り土地が狭く、

小さな漁村集落が点在していますが、片句もそのひとつです。

かつて県道が開通するまでは、小舟より他交通手段はなく、

各漁村とも孤立した集落でした。

前方に分校跡らしき建物をみて立ち寄りました。

 

こじんまりとした鉄筋コンクリート造ですが、

集会所となっているようです。

 

玄関先の白ツツジの傍に石柱をみて分校跡碑かと思いましたが、

近付いてみると「中国文学者 増田渉生誕地」とあります。

調べたところ、旧八束郡恵曇村(現・松江市)片句出身で、昭和期の中国文学者、

 元・関西大学教授の増田渉(1903年10月12日 - 1977年3月10日)です。

小さな漁村集落から偉大な文学者を輩出したことに驚きました。。

 

片句集落の風景

集会所は高床式の造りになっていて駐車スペースが設けられていました。

狭い土地の有効利用ですね。。

民家の屋根の間から日本海が間近くに見えます。

 

階段を下りると、往時の校門が残っていました。

 

分校跡地の石碑

やはり、ここに分校があったのは間違いないようです。

 

1915年(大正4年)3月開校

1979年(昭和54年)3月閉校

石碑の建立は1993年(平成5年)10月と記されていましたが、

閉校から14年を経てやっと建立されたのですね。。

かつてこの地で学んだ村人たちの働きかけがあったのでしょう。。

学び舎の記憶や故郷を大切に守り、いつまでも忘れずにとの

想いが感じられます。。

 

恵曇小学校片句分校(1979年閉校)

沿革をみると、
1908年(明治41年)4月1日 片句に分教場を設置して恵曇村尋常高等小学校と改称。
1977年(昭和52年)9月10日 片句分校の増改築工事が完成する
1979年(昭和54年)3月21日 恵曇小学校片句分校の閉校式を挙行する。

分校跡地の石碑は残っていますが、後日確認したところ校舎解体後に

集会所を新築したそうです。

 

島根原発を遠めに見ながら海岸線を走ります。

 

須々海(すすみ)の洗濯岩

御津漁港を過ぎてほどなく、洗濯板のような海岸が現れました。

日本海の荒波を受けて浸食された岩の固い部分が波状の

縞模様となって出来た自然の芸術品です。

 

このあたりの美しい海岸は、大山隠岐国立公園に指定されている

代表的な景勝地です。

 

大芦(おあし)漁港の入り江から山側に上っていきます。

 

高台に閉校となった小学校があります。

往時の校門も確認できました。

 

玄関前は道路一本だけの狭い敷地です。

 

鉄筋2階建て校舎の前には数台の車が止まっていました。

 

奥に校庭があり、地元の方々がグランドゴルフを楽しまれていました。

こちらが校舎の表側でした。

校舎は1977年(昭和52年)3月に完成したものです。

大芦(おあし)小学校(2005年閉校)

新設の島根小学校への統合に伴い閉校となりました。

1987年(昭和62年)の全校児童は94名でした。

 

引き続き県道37号を北上し、旧島根町に入ります。

校地は加賀小学校のあった場所ですが、コンクリート塀には

「しまね潮風学園」「松江市立島根小学校」となっています。

調べたところ、加賀小学校を増改築し島根小学校としたようです。

 

手前が体育館、他にも教室棟などが建っています。

 

教室棟の前には各クラスで育てたチューリップやパンジーの

プランターが並べてありました。

 

小学校の校章

 

開校記念碑 2005年(平成17年)4月

 

全面芝生で覆われた校庭

のびのびと快適にスポーツができそうですね。。

 

島根小学校(現役、旧加賀小学校を増改築)

島根小学校は、近隣の野波小学校、大芦小学校、加賀小学校の

3校が2005年の新・松江市制施行に伴い統合してできた小学校です。

新しい小学校では、加賀小学校の校舎を改築して特別教室に活用し、
敷地内に増築された新築校舎は普通教室と職員室に使われています。

新校舎は木を床や外壁などにふんだんに使い、木の暖かさを生かした
柔らかな雰囲気の校舎になっています。海に面した島根町の学校ということで、
屋根は波をイメージして設計されました。

島根中学校も同じ校地に移転、新築し、「しまね潮風学園」と称して

小・中一貫教育が進められています。

1987年(昭和62年)における児童数をみると、

野波小学校:197名、大芦小学校:94名、加賀小学校:110名で

合計401名も在籍していましたが、新設の島根小学校では

3校統合にもかかわらず、120名(2018年度)となっており、

島根半島沿岸部の過疎少子化を顕著に示しています。

 

島根小学校から山側へ入り、トンネルを抜けて野波集落に入ります。

このあたりは、片側一車線の快適な道路が整備されています。

沿道の芝生広場は、校庭ではなく多目的スポーツ公園です。

フェンスの奥は日本海です。

 

広場の名称は、野波海浜公園です。

公園ではキャンプ場や海水浴場も整備されており、夏場は

多くの人々が訪れるようです。

当日も家族連れがテントを張ってキャンプを楽しんでいました。

 

公園と道路を挟んだ向かい側に閉校となった小学校があります。

銘板もしっかりと確認できました。

 

校庭から正門を撮ったものですが、右手に校舎、海が近いですね。

 

3階建て鉄筋校舎と奥に体育館です。

校庭は、さきほどの公園とは違って手入れもされずに雑草天国と

なっています。

 

体育館は樹木に囲まれた土手の上に建っていますが、

使用感は無さそうでした。

 

体育館と校舎はこちらの渡り廊下で繋がっていました。

 

校舎の全景

どのくらいの児童が学んでいたのでしょう。。

島根半島沿岸の小学校では、比較的大きな校舎で児童も

多かったようです。

 

正面玄関の近景

 

道路脇に建つ石碑

 

校歌碑です。

歌詞よりも閉校となった日付が、太く濃く刻まれていました。

2005年(平成17年)3月からすでに14年が経っています。

 

玄関前の石碑

「水滴穿石」とは、小さい力でも積み重なれば強大な力になることの

たとえですが、水滴がこのような大きな岩を穿つのにどれくらいの

歳月を必要とすることでしょう。。

 

野波小学校(2005年閉校)

島根半島最北部にあった小学校です。

往時は200名ほど児童がいたようですが、前述のとおり

島根小学校への統合により閉校となりました。

 

美しい海岸を眺めながら旧美保関(みほのせき)町に入ります。

 

引き続き県道37号を東へ進み、千酌(ちくみ)集落に入ります。

集落の中で最も目立つ建物が閉校となった千酌小学校です。

 

近付いてみると、思った以上に校地は広く、バラスが敷かれて

地区の集会所が建っていました。

 

数棟の校舎が集まっていて複雑な外観です。。

 

校庭に出て引いて撮るとスッキリしました。

隣の体育館は目新しい感じです。

校舎よりも後に建てられたか改装したようです。

地区の避難所となっていました。

 

ソテツの袂、石碑には「疑思問」

孔子の論語のようです。

「疑問に思うことは探求する」との意味ですが、

元文部大臣、奥野誠亮の揮毫です。

 

校舎の全景

1979年(昭和54年)8月竣工の鉄筋校舎です。

ちょうど40年経っています。。

 

校舎の裏側

車が数台停まっていましたが、閉校後も別の目的に使用されている

様子です。

 

校舎裏に乱雑に放置された一輪車

最後の児童が使用していたものでしょうか。。

 

校舎裏で、以外にも正門と銘板を発見しました。

かなり年季が入っており、現存校舎とは不自然な位置にあるため、

前代の校舎時代からこの位置にあったものなのか、移築してきたものでしょう。

詳細は不明です。。

 

千酌(ちくみ)小学校(2006年閉校)

1987年(昭和62年)の全校児童は135名でしたが、

児童減少により美保関(みほのせき)小学校への統合に伴い

閉校となりました。

 

さらに海岸線を東へ進み、七類港(しちるいこう)まで来ました。

七類港は隠岐諸島へのフェリーターミナルで、多目的ホール、

博物館、温水プールなどを備える多目的施設メテオプラザ

(Meteor plaza)となっています。

おびただしい数の車が停まっていますが、隠岐島在住者および

赴任者の車両(約600台)が長期駐車されているほか、
放置車両が存在するため、繁忙期に満車状態となることが

問題となっているそうです。

 

東に開いたコの字型の地形で、三方を山に囲まれていることから、

冬季の北西風に強い天然の良港で古くから交易拠点として

栄えました。

 

七類の沿道から脇道に入った場所に広い校庭と校舎が見えました。

 

往時の校門と表札が残っています。

美保関町が松江市に合併する2005年(平成17年)以前のものです。

 

玄関の近景

丸窓は船をイメージしたものでしょう。。

 

ミニチュアのような二宮尊徳像

 

何とも微笑ましい姿ですね。。

これまでの廃校巡りで初めて目にした尊徳さんです。。

 

他にも校舎があったのかもしれませんが、広すぎる校庭です。

 

七類(しちるい)小学校(2001年閉校)

校舎の中央に船の形をデザインしているのは、近くの七類港を

イメージしたものでしょうか。。

近隣の片江小学校とともに、美保関北小学校(2006年閉校)への統合に伴い閉校となりました。

2002年発行の地図を見ると、美保関北小学校は七類小学校と

同じ敷地にあったようです。

七類小学校舎を転用したのでしょうが、なぜか表札が変わっていません。

小生の調査不足のため、原因不明です。。

七類小学校は1874年(明治7年)開校、

1987年(昭和62年)の全校児童は120名、片江小学校では104名でした。

 

七類トンネルを抜けて南下すると、境水道が見えてきます。

境水道大橋は、島根県松江市から鳥取県境港市にかけて

県境を跨ぐ橋です。

 

境水道大橋の袂の福浦地区に閉校となった校舎が残っています。

右手に校舎、奥に講堂(体育館)です。

 

赤いトタン屋根の講堂(体育館)は、校舎よりも古い感じです。

昭和中期(30年~40年)に建てられたものでしょう。。

 

老朽化が進んでおり、使用感もありませんでした。

 

校舎は2階建てのモルタル校舎です。

白い壁が快晴の空に映えますね。。

 

正面玄関の両脇にヤシの木

山陰地方とは思えない南国情緒を醸し出しています。

閉校後は「歴史・生活体験資料館」として活用されていましたが、

立入禁止の貼り紙があり、閉館となっているようです。

 

潰れた百葉箱と錆びて回らなくなった風向計

 

校歌碑

 

目新しい学校跡碑

校章と往時の校舎のモノクロ写真、そして小学校の歴史が

記してありましたが、最もインパクトがあるのは門標に

刻んだ言葉でしょう。。

一般的には、福浦小学校跡碑と記すところ、

「ここに福浦小学校があった」とは、ストレートに訴える表現で、

強く心に残りました。

 

福浦小学校(2001年閉校)

1873年(明治6年)、美保関小学校福浦分校として開校。

2001年(平成13年)美保関東小へ統合に伴い閉校となりました。

1987年(昭和62年)の全校児童は71名でした。

その後、美保関東小学校は、2006年(平成18年)美保関小学校へ

統合となっています。

美しい外観の校舎は、美保関を舞台にした短編映画「いざなぎサンセット」の

ロケ地になりました。

しかしながら、現在は活用の目途もなく、老朽化のため解体される予定とのことです。。

 

境水道沿いに進むと校舎らしき建物が見えました。

手前が校舎、奥が体育館です。

 

体育館は避難所に指定されており、地区のスポーツ大会等でも

活用されているようです。

 

校門の銘板は、どこかで見たのと同じ表札です。

旧福浦小学校で見ましたね。。

こちらに移転したのですね。

 

目新しい鉄筋校舎は2棟が繋がっていました。

というものの、1988年(昭和63年)築ですので既に30年以上経過しています。

 

バラスを敷いた校庭は駐車場となっています。

 

美保関東小学校(2006年閉校)

島根半島の最も東にあった小学校です。

玄関はコの字型になった校舎の側面にありました。

「美保関歴史・生活体験資料館」では、漁業や観光の町として発展した

美保関の歴史や漁具などが展示されており、地元の児童らが

授業の一環として見学に来るようです。

美保関東小学校は、美保関北小学校、千酌小学校とともに

下宇部尾(しもうべお)地区に新設の美保関小学校に統合され、

美保関町で小学校は1校のみとなっています。

 

島根半島東端まで辿り着きました。

松江市編の日御碕から始まった廃校巡りは美保関で終わりです。

始点と終点を灯台にできるのは、東西に帯状に突き出した島根半島

ならではでしょう。。

 

海岸を眺めながら、遊歩道をゆっくりと進みます。

 

突き当りには、石造りの塀に囲まれた赤い屋根の洋館、

隣に灯台が並んでいます。

塀には、ビュッフェの看板も見えました。

 

右に折れて灯台方向に進みます。

 

石造りの洋館は、建設当初に職員が家族で生活するための

職員宿舎や倉庫でした。

その後、灯台の無人管理化により用途を失っていましたが、

美保関灯台ビュッフェという飲食店に改装され活用されています。

真っ赤な屋根も白亜の壁も、近年に塗装しなおしたのでしょう。

紺碧の空に映えますね。。

 

お洒落な玄関ポーチ

天皇陛下御即位をお祝いする垂れ幕が掲げてありました。

灯台ビュッフェは準備中の札が掛かっていては入れませんでした。

地元の海の幸を使ったカレーやいかめしが看板メニューのようですが、

日本海を眺望できる絶好のロケーションが魅力的です。

 

石造りの門を抜けて敷地内に進みます。

 

全国の灯台に見られる海上保安庁、燈光会、日本財団が設置した

お馴染みの解説板。

 

美保関灯台

1898年(明治31年)完成の山陰地方最古の石造灯台です。

島根半島東端であるこの地は、航海の安全を祈願して多くの地蔵が

祭られていたことから、建設当初は地蔵崎灯台と呼ばれていました。

 

地上14mは、日御碕灯台に比べ小ぶりですが、海面からの高さは

83mを誇ります。

 

天気の良い日には、海の向こうに隠岐の島を望むこともできます。

 

天気は良かったのですが、小生には水平線しか映りませんでした。。

 

 

 

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